和紙の歴史  ふすま・障子と和紙の伝統文化     

       

 (一)紙以前の紙


  筆と墨

  記録のため文字が発明され、次いで文字を記すための筆記具が作られた。紙よりもはるかに早く筆と墨が発明されている。
  通説では、筆は古代中国の秦の始皇帝の時代(BC221年に中国統一)に、蒙恬が発明したとされている。                    
 しかし、近年の研究により、今からおよそ3500年も前の殷の時代(BC1600年頃成立)に、すでに筆や墨が使用されていたと言われている。遺跡から出た甲骨文にも筆を表す象形文字がみられ、長沙地方で楚の古墳から、竹の軸にウサギの毛を糸で巻き、漆(うるし)で固めた筆が発掘されている。

  墨は、黒い土や石墨(グラスファイト)、また炭を水で練るか溶かせば容易に作ることが出きる。このような原始的な墨は、筆よりも遙かに古く、紀元前3000年の新石器時代には知られていたという。
  墨は、炭素の粒子が細かいほど筆記には都合がよい。現代のような油煙の煤(すす)を用いるようになったのは、周の宣王(BC827即位)の時代に考案された。 
  明の時代の『天工開物』には、墨の作り方が詳しく図解入りで残されている。
  煤は膠(にかわ)で丸く固め、必要に応じて適当な濃さに溶いて用いるようになった。 墨をする硯は、すでに漢の時代から使用されており、岡と池を持った現代のような形になったのは、唐の時代のころといわれている。 


 
 絹と紙 

  紙が発明される前から、「紙」という文字はもともと中国にあった。
  紙以前の「紙」はもともと絹の一種を指していたようだ。
  紙の「糸」偏は「生糸を併せて一本に撚った形」、旁の「氏」は砥で砥石のように平らなことを意味している。

  紙が発明される以前の書写材として、主として竹簡や木簡に筆墨で記録され、また紀元前七〜六世紀以降には、「紙」という絹帛(細かく織った絹)などに記された。 
「紙」は貴(たか)く、役所の記録には竹簡や木簡が使用されたが、重く嵩張るため不便であった。

「紙」と呼ばれた絹帛 は、一匹(約50p×9m)の値段が米六石に相当したという程、貴重なものであった。
  古代中国では絹を作るときに派生する質の悪い繭から、絮(じょ)という真綿をとり、防寒用に利用した。この絮を作るには、絹の繊維くずを竹筐の中で水につけながら、竹竿で叩いて晒して作った。この時に、簀の上に微細な繊維が薄い膜状に残り、それを乾燥させると、薄いシートになる。    
 これを漢代には、「紙」と呼んで書写材料として利用した。紙の一歩手前のものではあるが、原料がクズ繭とはいえ高価な物で、大量に作ることは不可能であった。 
  
 日本語では紙をカミと読むが、その語源には諸説ある。
  紙の発明以前は、ガバノキ(樺)の樹皮に書いた(様々の樹皮や獣皮を利用した)ので、カバがカミに転じたという説と、竹簡・木簡の「簡」はカヌ、で音の変化でカミとなったとの説がある。
  いずれにしても、ものを書き記すために、さまざまなものを「紙」として利用してきた。
  農業が発達して、多くの人々が定住して村落を形成して暮らすようになると、それなりの組織を必要とし、その組織の維持のためのさまざまな記録が必要となっていく。
 記録のための文字の発明と同時に、さまざまな書写材料が試行錯誤で利用されていった。特に国家の成立は、組織的な記録の保存が重要な命題となった。
  「紙」の開発には、多くの時間と研究投資が必要で、試行錯誤が繰り返されて開発された「紙」は、時として国家の戦略物資として、製法が秘密にされて、重要な交易商品となった。


  パピルスとパーチメント
 
 古代の西方世界での書写材は、初は粘土板であった。         

 湿った粘土板に、葦の茎で楔形の文字を刻みつけた。乾燥すると極めて固くなり、保存性に優れていたが、やはり重く嵩張るために保管に苦労したであろう。
  やがて、古代エジプトで、パピルスという優れた書写材料が発明されて、広く用いられるようになった。 
  パピルスは、紀元前2500年頃のエジプトで、文字の使用と共に使用され始め、古代エジプトの重要な輸出品で、貿易の通貨の役割も担っていた。
 パピルスは多年生の草本で、食料、船の構造材、縄、書写材など様々に利用された。書写材としての「パピルス」は、水草のパピルスの根に近い部分の髄を取り出し、薄い片にして水に漬けて叩き、長さを揃えて縦と横に並べて圧搾脱水し、乾燥させた後、表面を動物の牙などで擦って滑らかにして使用する。今日的な感覚では、紙というよりも原始的な布のようなもので、欠点としては文字が書きにくいことと、脆いことであった。片面しか記入できないことと、また曲げに弱いため30p四方のものを二十枚くらいつないで5mほどの巻物として利用した。
 「volume(巻物)」は、パピルスの巻物のラテン語表現を語源とする。
 「bible(聖書)」は、ギリシャ語でパピルスに文字を書いたものをbibloと表現した事を語源とする。そして、紙を意味するpaperがパピルスを語源としていることは周知のことである。これらのことは、古代世界でいかにパピルスが広く利用されたかの証左である。

  パピルスの製造と流通は、エジプト王朝の管理下に置かれ、書写材のパピルスの製法は秘密にされていた。まさに国家の戦略物資としての地位を占め、それはサマルカンドで盛んに製紙が行われるようになるまで続いた。

  古代における優れた書写材を開発したエジプトは、プトレマイオス一世(BC283没)の時に文明の象徴として、古代最大のアレクサンドリア図書館を作った。パピルスの書物は、天文、科学、文学、歴史、信仰、慣習などあらゆる分野に及んでいる。息子の二世フィラデルフォスがその充実に努め、蔵書は数十万巻といわれている。エジプト文明を彷彿とさせる壮挙であった。                     
 ところが、アナトリアのペルガモン(現トルコ共和国ベルガマ)におこった王朝のエメネウス二世(在位BC197〜159)は、アレクサンドリア図書館の司書長を引き抜き、エジプトに対抗して二十万巻の書物を蔵する大図書館を作った。

 新興国のペルガモン王朝は、世界に文明国家としての存在を誇示したのだろうか。
 エジプトはアレクサンドリアを越える図書館の出現を喜ばず、パピルスの輸出を停止した。
  このために、エメネウス二世は、パピルスよりも優れた書写材料の開発を命じて、生まれたのがパーチメント(羊皮紙)である。        
 羊の他に牛や鹿等の獣皮を、水に漬け石灰乳に浸して不要な毛や肉を取り除き、木枠に張り付けて乾燥させ水洗い後、軽石で表面を磨いて平らにし、最後に白色の鉱物の粉をすり込み不透明化した。

  羊皮紙は、パピルスに比べてはるかに書きやすく、また強靱で冊子本を作るのに適しており、さらに保存性にも優れていた。このため、紙が普及するまでは、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教などの聖書に使用され続けている。            
 ただとにかく高価で、バイブル一冊を書くのに羊五百頭分の皮が必要であったという。羊皮紙のパーチメントの名称は、ペルガモン王朝の名に由来している。


  貝多羅(ばいたら)
      

  インドでは古くから、ターラという樹の葉を書写材料に用いていた。
  ターラは棕櫚(しゅろ)の葉に似たパルミランヤシ、コリハヤシの若い扇子状の葉を、幅七〜八p、長さ六〇pほどの長方形に整え、束ねて乾燥させる。乾燥したターラに、墨壺と糸を用いて五本の線を付け、先のとがった筆で葉の両面に文字を彫りつける。
 そこに油にすすを混ぜたインキを流し込み、熱した砂でふき取ると、文字の部分だけが黒く染まる。その各片をパットラといい、サンスクリットでは葉を意味し、漢訳では「貝多羅」「貝葉」とした。
  貝葉は、一つの穴を開けて、紐を通してまとめられる。二つの穴を設けて、ノートのようにめくれるようになっているものあった。

  玄奘三蔵(602〜664)が、はるかな天竺へ行ったのは、中国で紙が発明されてから五百年以上もたってからであったが、インドから持ち帰った経文は、貝多羅 を重ねて、両端を版木で挟み縄で結んだものであった。
  玄奘三蔵がもたらした経典は五百二〇夾(きょう)であったと記されているが、「夾」とは、はさむという意で、貝葉の束を意味する。
  むろん、その頃にはインドにも、紙は商品として渡っていたはずだが、まだ製紙法は伝えられておらず、高価で一般的ではなかったようだ。
  或いは、聖なる仏典は、昔ながらのターラに書くべきだという、保守的な考え方が強かったのかも知れない。


  中国古代の紙

  中国では、紙の発明以前に、「紙らしきもの」は作られていた。   
 
最初の紙らしきものの発見は、1933年に新彊(しんきょう)のロプノールの近くの前漢時代の烽火台(のろしだい)跡から発見されている。同時に出土した木簡に記年があり、紀元前四九年の表記がある。このロプノール紙は一九三七年の戦火で焼かれ現存しない。

  この紙は「麻紙」で、紙質がきわめて荒く紙面にまだ麻の筋が残っていたという。
 その後、紀元前140〜87年頃の前漢時代のものと推定される「麻紙」が1957年に西安市で発掘された。四川大学で化学検査をしたところ、大麻と少量の苧麻が含まれていることが判明した。           
 さらにこれより古いとされる麻紙が、1986年天水市の古墳で出土している。これは「放馬灘紙」(ほうばたんし)と呼ばれており、埋葬者の胸部に置かれていた長さ5.6p、幅2.6pの小さな紙片で、前漢時代の紀元前179〜141年頃のものと推定されている。これは現在知られている中国で出土した最古の紙で、地図らしき物が描かれている。            

  中国で発見されているこれらの古代の紙は、むろん世界最古の紙である。
 ただこれらの紙は、麻の繊維から出来ているが織物に近く、銅鏡などを包むのに使用された「包装紙」で、この上に文字や絵を書くにはあまり適さないものであったようだ。 ただ、もともと紙の用途は多用途で、物を書き記したり絵を描いたりするだけでなく、物を包む、汚れや水分を拭き取る、水やその他の溶液を濾過する、ものに張るなどさまざまな用途がある。





(二)紙の発明と伝播

  紙祖蔡倫伝 一

  紙が発明されたのは、後漢時代の105年に蔡倫(さいりん)が、汎用性が高く従来品に比較して廉価な「書写材料に適した紙」の製法を発明して、時の皇帝であった和帝に献上したことに始まるとされている。(『後漢書蔡倫伝』)
  当初は蔡倫が発明した紙を特に「蔡侯紙」といった。それまでの「紙」は、絹の一種を指していたために、区別する必要があった。
  中国では、大麻、苧麻(ちょま)は古代から利用されている。          麻の繊維は固いために、水にさらして叩いて、繊維をほぐす必要があった。絹も繭を水につけてさらして作る。クズ繭から絮という真綿をつくる時に、簀の上に残る薄いシート状のものを「紙」と呼ばれた事は前に述べた。
  蔡倫は、これらの事から紙の製法を思いついたのであろうと推測されている。
 それまでの「紙」は、絹の生産過程で派生するもので、原料が限定された高価もので、多用することができない。
  そこで、大麻、苧麻や麻のボロ、漁網などの繊維を木灰汁で煮て、水でさらして細かく砕き、簀で漉くという方法で紙の製法を考案したと思われる。書写材に適した紙を漉くには、繊維を細かく砕くのが最大のポイントで、西方から伝来していた石臼を利用したであろう。「蔡侯紙」以前の「紙らしきもの」は、表面が粗く、麻の繊維が筋状に残っており、書写材としてはやや不適な織物に近い状態であった。          

  中国での相次ぐ古代紙の出土が、蔡倫を紙の発明者(『後漢書蔡倫伝』)の地位から、紙の改良者、製紙法の確立者へ変更させた。
 しかし、古代の「紙らしきもの」から書写材に適した、安価で量産できる今日的な紙の製法を確立したという偉大な業績と始祖の名は揺らぐことはない。
  蔡倫は、紙の発明当時に後漢の都洛陽で尚方令という、天子の御物を作ることを主な任務とした官職に就いていた。役職柄、宮廷の物づくりが仕事であり、費用を惜しまず原料の調達ができ、試作を繰り返すに都合の良いポストにあり、さらに仕事に忠実で研究心の旺盛な蔡倫の人格が、世界に先駆けた偉大な製紙法の発明につながっていった。 

 蔡倫は、宮廷関係の役職者であるため宦官であったが、宦官のなかでも幹部級の官職であった。俸禄は六百石で、ほぼ県の長官と同格であったという。
  紙の発明は、文明や文化の情報伝播と交流に、果たした役割は計り知れない程大きな、世界的な発明であった。
  ただし、発明当初は当然ながら国家的な戦略物資として、製法は秘密にされて、商品としてのみ輸出された。

  世界の三大宗教といわれる、仏教、イスラム教、そしてキリスト教も、紙なくしては世界宗教にはなり得なかったと思われる。
  また、宗教によって、紙と製紙法が広く世界に伝えられたともいえる。
  玄奘三蔵が天竺(インド)から持ち帰った経典はすべて貝葉に記されていた。これを紙に写経することで、広く仏典が紹介され、我が国にも伝えられた。




  紙祖蔡倫伝二

  紙の発明者として名高い蔡倫は、宦官(かんがん)であったが故の、後宮の政治抗争事件に引き込まれ哀れな最期を終えている。
  長い中国の歴史で、多くの人々が去勢されて宦官に仕立てられた
  世界史でも中国にしかなかった宦官の制度は、去勢されて後宮に仕える官職で、主に罪を犯して宮刑(腐刑ともいう)に処せられたものが用いられた、との暗いイメージがある。事実、宮廷という密室の中で、政治的な暗躍を図り、私腹を肥やし事実上の政治権力を壟断した宦官も多い。

 しかし、数多い宦官には歴史に名を残した優秀な人材も多い。     
 『史記』で名高い司馬遷は、自己の良心に忠実な発言のため、武帝の怒りに触れて屈辱的な宮刑に処せられている。

  宦官の歴史で、優れた宦官の双璧とされているのは、蔡倫と明の鄭和とされている。明軍が元軍を撃破して各地を制覇した時、将軍たちは明の皇帝に献上する美少年を物色し、十二歳の眉目秀麗の鄭和を献上品に選んだという。
  鄭和の家系は、雲南のイスラム教徒の有力者で、チンギスハーンに従って功績があったという。敗戦国の奴隷のような立場で、皇帝への献上品にされてしまったのだろう。
 鄭和は去勢されて明の永楽帝に仕え、後にその才能を認められ、七回に渡るアラビヤ・アフリカまでの大航海の総司令官を勤めた。

  さて、蔡倫のことである、字は敬仲、現在の広東省に近い湖南省南部の桂陽の出身である。去勢の経緯は記録に残っていないが、やはり少年の頃に去勢されたと推測されている。
  後漢は幼帝が相次ぎ、皇太后の摂政が多かった。           
 蔡倫が仕えた和帝には、異母兄がいた。和帝の父の章帝の正妻の皇太后には実子がなく、和帝を実母から引き取って育てた。皇太后は和帝を即位させるために、すでに皇太子であった和帝の異母兄の劉慶の実母宋貴人(そうきじん)を陥れ、劉慶を皇太子の座から追放した。
  この宮廷内部での政権争いの事件に、必然的に宦官である蔡倫が利用された。権力者の皇太后から事件の事実調査を命じられた蔡倫は、宋貴人に不利な結論を出さざるを得なかった。
  章帝 が死んで、和帝が十歳で即位すると、和帝の育ての親の皇太后の天下となった。蔡倫は和帝即位後、宦官の幹部級の中常侍に昇進している。後にさらに昇進して、尚方令 に任命され、その職務のなかで紙の発明を行うことになる。
 話は複雑に展開して行き、蔡倫はその出世の契機ともなった事件の因果で、時代が代わった時に、自刃に追い込まれるという哀れな最期を迎える事となる。
 権力欲の強い皇太后の摂政の下に、皇太后の兄達が実権を握り、政治を私物化していった。あまりの乱脈ぶりに、和帝もやがて危機感を抱き、逆クーデターを起こし、皇太后の一族を粛正した。このクーデターに力を貸したのが、皇太后により皇太子を廃された異母兄の劉慶 の清河王であった。                          
 蔡倫が紙を発明して和帝に献上するのは、このクーデターの十三年後の事である。 紙の発明のあと直ぐに、和帝が二十七歳の若さで死ぬ。和帝の子供は皆幼児期に死亡しており、やむなく和帝の異母兄の清河王であった劉慶 の子で十三歳の劉祐 が即位する。これが安帝である。安帝が即位したことが、蔡倫にとって不幸な結末になった。
 安帝はまれにみる暗君で、後漢の衰亡は彼に始まるといわれている。先帝の皇后が亡くなり、安帝の親政となると、まず手がけたのが四十年以上も前の祖母であった宋貴人の怨みを晴らすことであった。
  かくして、安帝の祖母を陥れた本人が居ない以上、犠牲にされたのは当時の事件調査報告者の役割を演じさせられた宦官、蔡倫に他ならない。




  サマルカンドの製紙

  西方で最初に紙漉き場が作られたのは、七五一年中央アジアのサマルカンドであった。唐軍とイスラム勢力のアッバース朝がタラス(カザフスタン共和国)で戦って、唐軍が破れたときの捕虜に、紙漉きの職人がいて伝えたという。
  西方への製紙法の初伝は、戦時捕虜という予期せぬ出来事で、しかも日本への伝来から140年以上も経過している。
  またこの時代の唐では、製紙法が秘密にされていたのかも知れない。
  サマルカンドでは、桑、苧麻などを製紙原料に使用して紙が漉かれた。
  しかしサマルカンドでは、桑科の植物が少なかった。そこで、麻のボロの混入量を次第に増加させ、ついにはボロのみで紙を漉く技術を確立した。


  国際商人ソグド人

  ペルシャ語で紙のことを「カーガス」という。アラビア語でもインド語でも紙のことをカーガスといった。カーガスは、中国語の穀紙(Gu-zhi)が訛ったものとされている。紙を西方に商品として伝えた国際商人のソグド人が、紙をカーガスと呼んだ。
  中央アジアで、シルクロードを経由した東西交易に重要な役割を演じたのが、国際都市サマルカンドであり、サマルカンドを中心に、世界を股にかけて活躍したのがソグド人であった。 
 ソグド人は、もともとソグディアナ地方にいたが、アレキサンダー大王の遠征によって、各地に四散させられることになった。四散したソグド人は、国境を越えて連携しつつ、自らの才覚で国際商人として活躍したのである。
 イスラム帝国のアッバース王朝は、アラブ人の政権であったが、中央アジアでの住民は、イラン系、トルコ系が多かった。          
  サマルカンドは、イスラム文化によって育まれ、ソグド人の東西交易の活躍によって、当時の世界でもたぐいまれな文化都市を形成していた。


  コーランと紙

  イスラム世界はイスラム教によって統一されている。
 イスラム教の聖典は、『コーラン』であるが、アッラーの啓示を受けたマホメットの時代には、「天上に書板としてあり」地上には存在せず、マホメットによって語られた。
  マホメットの死後、神の啓示としての地上の『コーラン』の編纂がカリフ(マホメットの代理者という意味)によって行われた。さまざまな書写材に書かれた『コーラン』も、イスラム圏の拡大により、まちまちの方言で表記された。   
 当時は、パーチメントに書かれた『コーラン』が多かったようだが、音吐朗々と読唱されねばならない『コーラン』が方言では都合が悪く、何度かの結集と統一が行われた。  
 このような事情で、結集統一された聖典『コーラン』の配布が必要であった。
このような時期に、サマルカンドで紙漉きの技術が伝わったのであった。
 サマルカンドでは、最盛期には一つの川筋に300もの水車があり、そのうち140は製紙用のものであったといわれている。
  サマルカンドで製紙が盛んになるにつれて紙が普及し、紙に書かれた聖典『コーラン』は誰もが手元におくべきものとされた。




  ダマスカス紙

 サマルカンドで改良された、ボロだけで紙を漉く技術が、ソグド人によって、イスラム圏の世界最大の文化都市バクダッドへも794年に伝えられた
  さらに西進して、ダマスカス(シリア)でも製紙が始められた。ダマスカスは、もともとバクダッドが建設されるまでは、アッバース朝の首都であった文化都市であった。
 このダマスカスで漉かれた紙は品質が良く、地理的条件からもヨーロッパへ輸出された。ヨーロッパでは、紙の代名詞としての「ダマスカス紙」の名で流通していた。製紙法は、国際商人ソグド人によってイスラム圏の各地に伝えられて、エジプトでも900年代には、パピルスがすべて紙に取って代わられた。
  アフリカの地中海沿岸を西進して、1100年にモロツコのフェズで製紙が開始されている。




  ヨーロッパへの伝播

  地中海を渡ってヨーロッパで最初に紙が漉かれるのは、スペインのサティバで1150年頃とされている。
  この頃のヨーロッパでは、ギリシャ・ローマ教会が完全に分裂して、ローマ教皇が絶頂期を迎えた時期であった。十字軍の遠征が始まり、都市の勃興期で、それにつれて商業が活発となり、貨幣経済が進展した時代であった。              フランスのエローでは1189年、イタリアのファブリーノで製紙工場が造られたのは1264年であった。ヨーロッパ全土に製紙が広まるには、およそ300年の歳月を必要とした。
  その後フランスは、中世における最大の製紙国となった。
ヨーロッパでの製紙の伝播速度は、イスラム圏に比べてはるかに遅い。


  紙の普及は、宗教と大きな関わりを持っている。
  イスラム教では、個人が直接絶対神のアッラーに祈る。イスラム圏での聖典『コーラン』は、誰もが手元におくべきものとされた。従って紙の需要も大きかった。中世のヨーロッパでは、カトリック教会が支配していた。
  キリスト教の聖典『新約聖書』は、キリスト教団の成立後、その布教の長い歴史の課程で、多くの人々によって書きつがれたものである。
  中世カトリックでは『聖書』は教会が管理した。             
 後のプロテスタントと違い、カトリック教徒は、すべてを教会にゆだねている。神の教えは教会を通じて伝えられ、神への祈りも教会を通じて行われる。
 個人として、神と直接対話を行うことは許されず、神の代理の司祭を通じなければならなかった。
 このような中世ヨーロッパでは、キリスト教徒は個としての確立が遅れ、必然的に紙の需要も神職者に限られたのであろう。

  西方世界に紙を伝えたサマルカンドも、一二五八年モンゴル軍によって完全に都市を破壊されている。





(三)紙の伝来と国産化

  紙漉きの伝来                               

  製紙の日本への伝来は、地理的条件からヨーロッパへの伝来に比較して500年以上も早く、飛鳥時代の610年に高麗僧「曇徴」(どんちょう)によって紙漉きと墨の製法が伝えられた。(『日本書紀』)

  「・・・高麗の王、僧曇徴、法定を貢上る。曇徴は五経を知れり。また能く彩色及び紙墨を作り、併せてみず臼(水車を利用した臼)を造る。」

と、ある。                             
 高麗王が、先進技術者の二人の僧を日本に派遣したのである。
  水車を利用した石臼は、紙漉きの原料の麻のボロや麻クズの繊維を細かく砕く(繊維の叩解)ためのものであろう。
  石臼とは碾き臼のことである。二枚の円形の石を重ねて擦りながら回す、いわゆる「ロータリーカーン」のことで、西南アジアで小麦の栽培が普及し、小麦を粉にするために発明され、長い時間をかけて改良された。                 米食圏では碾き臼は必要でなかった。稲は脱穀し、木臼と杵でつくだけでよかった。小麦圏では、粉にするために石臼が発明され、さまざまの試行錯誤がなされた。当初はむろん人力で小型の石臼を動かし、次第に牛や馬の力で大きな石臼を回した。そして中央アジアで、河の流れを利用する水車で石臼を回す水臼が開発された。小麦圏には一気に広まったと考えられる。そして、シルクロード経由で中国にも伝えられ、紙の発明とともに、原料の麻の繊維の叩解に利用されるようになったと考えられる。

  余談ながら、この水の流れを動力とした水臼の発明は、紙の発明にも劣らない偉大な発明であった。水臼は、人類が手にした最初の自然の力を動力として使った機械といえる。マルクスは『資本論』のなかで、

  「すべての機械の基本形は、ローマ帝国が水車において伝えた。」

  「機械の発達史は、小麦製粉工場の歴史によって追求できる。」        

と、述べている。




  書物の初伝

  日本への製紙技術伝来以前に、むろん紙そのものは書物としてもたらされているはずである。                        
 応仁天皇十六年(285)に百済の王仁が『論語』十巻と『千文字』一巻を伝えたのが、日本における書物の初伝とされている。(『古事記』)       
 ところが、『千文字』の作者は、応神天皇よりも百年も後の人で、太安万侶の『古事記』の内容には誤りがあり、はっきりしないが、四世紀から五世紀には書物として、紙が伝来していると推測されている。
  西方への製紙法の初伝は、戦時捕虜という予期せぬ出来事で、しかも日本への伝来から140年以上も経過している。
  またこの時代は、製紙法が秘密にされていたのである。
  すると、高麗王が、製紙技術者を日本へ派遣したのは、希有の暁光であったと言わざるをえない。高句麗王朝は古く、蔡倫が紙を発明する以前から成立しており、後漢の王朝と親交があった。このために、最初に製紙法が伝えられたと考えられる。飛鳥時代は、朝鮮半島から仏教やさまざまの技術や文物などがもたらされ、人の交流も盛んな時代であった。このような状況が、製紙の伝来を、西方世界よりいち早くもたらすという事になったのであろう。




  図書寮(ずしょりょう)

  紙漉きの技術の伝来から一〇〇年程してから、本格的な紙の国産化が始まり、天平九年(737年)には美作、出雲、播磨、美濃、越などで紙が漉かれるようになった。(『正倉院文書』)
  大宝律令(701年)によって国史(『古事記』『、『日本書紀』)や各地の『風土記』の編纂のために図書寮が置かれ、紙の製造と紙の調達もその職務に定められていた。
 図書寮では34人の人員の内4人が紙漉きの造紙手で写書手が20人いたと記録されている。更に図書寮の下に、山背国(山城国)に「紙戸」と呼ばれる平民の紙漉き専業家を置き、租税を免除して官用の紙を漉かせた。この他にも各地で紙を漉かせて、これを付加税として徴収していた。
  618年に随を滅ぼして唐が建国され、その10年後には唐は全中国を統一している。第一回目の遣唐使は、630年に派遣されている。
  ついでながら、唐の影響で初めて年号を定めて、大化元年としたのが、645年であった。いわゆる「大化改新」である。
  遣唐使は多量の漢籍や仏典の輸入を伴い、これらを写経して諸国に配布して、仏教の流布を行うため国分寺.国分尼寺が建立された。        
 天平十一年(739年)頃には写経司という役所が設けられ、写経事業の推進のために紙の需要がさらに拡大していった。
  『図書寮解』宝亀五年(774年)の記録によると、紙の産地として、美作(岡山北部)、播磨、出雲、筑紫、伊賀、上総(千葉)、武蔵(東京,埼玉)、美濃、信濃、上野(群馬)、下野(栃木)、越前、越中、越後、佐渡、丹後、長門、紀伊、近江の19カ国に及んでいる。

  昭和三十六年に、平城京や長岡京跡の発掘調査が行われ、40点の木簡が出土して話題を集めたが、その後の発掘の進展で数万点の木簡が出土している。平城京遷都が710年で、長岡京への遷都が784年であり、紙はかなり普及していたはずなのに、この時代の遺跡から夥しい木簡が出土している。
  ただ出土している木簡は、一簡に書かれたもので、それを紐でしばる册の形の物はないようである。木簡が紙より優れている点は、雨に濡れても破れる事がなく、紙より丈夫で価格が安い。商品の流通に伴う荷札などの用途には、木簡の方が機能的に優れている。また心覚え程度の記録なら、手身近な木簡の方が、安くて便利であったのであろう。



  国産化初期の紙

  最も古くから漉かれた紙は、麻紙で原料は大麻(Hemp)や苧麻(Ramie)の繊維や、麻布のボロや古漁網などから漉かれた。
 麻は繊維が強靱なので、多くは麻布を細かく刻み、煮熟するか織布を臼で擦りつぶしてから漉いた。漉きあがった麻紙は、表面が粗いので紙を槌で打ったり(紙砧)、石塊、巻貝、動物の牙などで磨いたりして表面を平滑にした。つぎに空隙を埋めるために、石膏、石灰、陶土などの鉱物性白色粉末を塗布する。さらに墨のにじみ(遊水現象)を防ぐため、澱粉の粉を塗布するなどの加工を行う。取り扱いが難しく、次第に楮に取って代わられ、一時期は消滅してしまった。

  麻と同様に繊維が強靱で、しかも取り扱いが易しい、増産に適した穀紙と呼ばれる楮を原料とした紙が次第に普及していった。
 穀は梶の木のことで、楮の木とも書き、楮と同属の桑科の落葉喬木で、若い枝の樹皮繊維を利用する。抄造は麻紙と同様に煮熟して漉いた。繊維が長くて丈夫な紙となり、写経用紙や官庁の記録用紙として、染色されずにそのまま用いられた。紙のきめや肌がやや荒いが、丈夫で破れにくく、衣食住のさまざまな分野に応用されて使用されていくことになる。
  『正倉院文書』の神亀四年(727年 奈良時代)の写経料紙帳に、麻紙、穀紙、染紙が使用されたとある。                      
 同じく天平十九年(747年)の条には、斐紙の名が見られる。斐紙は雁皮紙のことで雁皮を原料とした紙で、繊維が短く光沢があり、きめの細かいつやのある紙になる。さらに天平二十年には檀紙の名が見える。檀は真弓とも書き、主に弓を作る材料に利用されたニシキギ科の落葉亜喬木で、若い枝の樹皮繊維を利用する。檀紙は陸奥紙とも書き、みちのくのまゆみ紙といわれ、厚手で白色の美しい紙であった。  




 彩色加工紙                             

 『正倉院文書』天平勝宝四年(753年)には植物で染色された、五色紙・彩色紙・浅黄紙などの十数種類の色紙と、金銀をさまざまにあしらった、金薄紫紙・金薄敷緑紙・銀薄敷紅紙などの十数種類の加工紙の名がある。
  この他に『正倉院文書』には多くの紙の名が見える。           
 原料名を示す麻紙・斐紙・穀紙などの他に、紙屋紙・上野紙・美濃紙などの産地名や固有名詞を冠するもの、加工法を表す打紙・継紙(端継紙)、形と質を表す長紙・短紙・半紙・上紙・中紙、他に用途を示す料紙・写紙・表紙・障子料紙(明かり障子ではなく間仕切り総称としての障子にはるもの)、染料の名を示すもの、色相を示すものなど実に多くの紙の名が見える。
 図書寮が置かれ、官庁の紙の需要増大に対応して、年間の造紙量を二万張(幅二尺二寸長さ一尺二寸)と規定し、さまざまの造紙の工夫がなされるようになった。官営紙漉き場である図書寮とその付属の山城国の五十戸の紙戸が指導的立場で、写経用紙をはじめ夥しい色紙、染紙、手の込んだ加工紙などが抄造され、華麗な天平文化の一翼を担った。




 世界最古の印刷物                         

 この時代の特筆すべき事項として、宝亀元年(770年)に、百万塔陀羅尼経が完成している。(『続日本紀』)
  この百万塔陀羅尼経が、現存する世界最古の印刷物とされている。
  印刷の方法は、陽刻に彫った版木に墨を塗り、その上に紙を乗せて摺ったと考えられている。逆に、紙を下にして捺印したという説もあるが、版は陽刻(版が凸状のもの)である。
  捺印の歴史は古く、古代オリエント、ギリシャ、ローマ、中国でも印章として使用された。紙以前の印章の版は、すべて陰刻(凹状に溝を彫ったもの)であった。紙が使用されるようになってから、400〜500年後に陽刻が登場したといわれている。木版が初めて歴史に登場するのは、随の文帝十三年(593)で、天下の書物を集めて、木版で刷るように命令したという。
  書籍の出版が盛んになるのは宋の時代(960〜1127)で、その末期(1045年頃)に、畢竟  が陶製の活字を発明したとされている。その後、木製活字が開発され、後代の明になって鉛や銅などの金属活字が作られるようになっている。

  陀羅尼は、サンスクリットの写音で、仏前で唱える呪文のことである。
 百万塔陀羅尼経が刷られた紙は、穀紙または黄麻紙などさまざまで、虫喰いを防ぐために黄檗汁で染められている。図書寮やその付属の山城国の紙戸だけでの抄紙能力では不十分で、各地の紙漉き場が動員されたであろう。  

 百万塔陀羅尼経は一行が五文字で統一されており、紙幅が4.5Cmで長さは陀羅尼の種類により一定していないが、15p〜50pほどである。  
 百万基の小さな三重の塔は、中国渡来のロクロを使用した木製の塔で、陀羅尼の摺り本が納められている。
 この百万塔は、法隆寺・東大寺・興福寺・薬師寺・四天王寺など名だたる十大寺にそれぞれ十万基ずつ分けて納められた。完成するのに6年の歳月を費やしている。   十大寺に分置された百万基の内、現存しているのは法隆寺の四万数千基と、他に博物館や個人所蔵のものが若干残っているだけである。

  百万塔の一大事業は、称徳天皇が、藤原仲麻呂の乱を平定したあと、乱に倒れた多くの人々の鎮魂と、国内平和を祈願して発願された。
  称徳天皇の名は、再即位したときの名で、最初の即位は孝謙天皇で、女性の天皇として有名である。また彼女が征伐した藤原仲麻呂は、藤原不比等の孫であり、彼女の母方の祖父も同じく藤原不比等である。つまり血のつながったいとこを粛正したのである。このような複雑な政治的な背景の下に、百万塔の一大事業が発願されたのであった。


建具の歴史
和紙の歴史
目次
(1)紙の発明とその伝播

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