
| 襖・障子と建具の歴史 佐野晃夫著 |
(一)先史時代の建具
建具の原型は、扉である。 扉の起源を辿れば、人類の住まいの起源にまで遡ることができる。 住まいの起源は洞窟である。40〜50万年前にはジャワ原人や北京原人が洞窟に住まい、火を使い石器を使用していた。さらに10万年前頃の第四氷河期には、ホモサピエンスが現われた。 住まいの原点を考えれば、雨露を凌ぐと同時に、外敵から身を守ることである。穴居していても、入口の防柵は作ったはずである。樹木を蔦や蔓で結わえて、外敵の猛獣の危害から身を守ることをしたと思われる。 氷河時代でも間氷期(氷河期と氷河期の間 )には、気候が温暖になり濶葉樹林も生い茂り、狩りの対象となる動物も増え、従って人口も急増したと考えられる。必然的に食料を求めて動物を追いながら、洞窟の外へ出て平地に住まう必要が発生した。
そうした状況から洞窟と似た条件として竪穴住居が工夫された。地面を石器や骨片で洪積層まで(約50p)掘り下げると、粘土層になる。
粘土層は一定の温度湿度を保ち、夏は涼しく冬は外気に比較して暖かい。踏み固め、竪穴の中で火を焚くと、炭化して表面が素焼きの状況で引き締まり、さらに柱まわりの四周に、約20p程溝が掘られ、完全防水床ができあがる。
柱まわりの外周には、掘りだした土を盛り上げ、水の侵入を防ぐ壁として利用した。
入り口は、樹木を蔦や蔓で結わえて、屋根材の萱や葦などを利用して編み込み、昼間は水平に跳ね上げて棒で支えておき、夜は外敵の防柵として使用したと考えられる。後述する編垂蔀(あみだれしとみ)の起源と考えられる。 この開閉できる編垂蔀を一応扉の起源としてもさしつかえないと思われる。 編垂蔀(あみだれしとみ)は、後々まで利用され、『日葡辞書』(日本耶蘇会により刊行された日本語・ポルトガル語の辞書)にも、編み垂れの項には
「戸口や窓の前にかけた目の粗いすだれ」
とあり、さらに蔀の項には、動詞として
「雨や風がはいらないように覆いをする、または、閉じ塞ぐ」
とある。つまり、蔀は「風雨をしとむ(止む)」(xitomu)とう動詞からxitomiと名詞化したものである。
日本最古の百貨事典ともいえる『和名類聚抄』(931〜938年)にも蔀の項がある。
「覆つて、暖をとり日差しを障えぎるものなり」
とある。
縄文時代には村落が形成され、原始的な焼畑農業が発生し、その後の稲作技術の伝来で稲作文化の急速な普及が見られる弥生時代が到来する。
稲作文化の伝来は、農具としての鉄器や銅器と冶金技術をもたらし、また稲を保存する為の高床式建築技術をも伝えた。稲作と金属の使用は、土木技術の発展と共に、必然的に木工技術の発達と建築技術の発達を促進し、古墳時代に入るとさまざまな形式の住居がみられるようになる。
村落形成によって外敵の心配が消え、『和名類聚抄』のいうような「覆って暖をとり日差しを障えぎるもの」として、より簡易な葦や草だけで編んだ編垂蔀を、入り口に使用した。
『日本書紀』(奈良時代に編纂された最古の勅撰の正史)には、席障子(むしろしとみ)という記述がある。
さて、建具としての扉の話である。
建物の一部である扉は、建物の歴史と不離一体をなしている。
弥生時代の稲作の普及による農耕村落社会は、多くの建物を必要とした。稲作は穀物の貯蔵が必要であり、高床式の米倉が作られた。
この高床式の壁は、板校倉作りと呼ばれる井篭(せいろ)のような組み方で実に精巧な作りである。
当然ながら、扉も付随して作られていたはずである。 そもそも扉とは、軸釣とそれを差し込み回転させる軸受けによって、開閉する建具である。
伊豆の山木遺蹟(1950年発掘)は、弥生時代の農耕村落遺蹟である。
この遺蹟から扉と推定される遺物が発見されている。縦60.6×横47.6p厚さ3.9pの柾板でできており、縦の片側に軸釣とみられるつくり出しがある。 古墳時代には扉の出土例が増え、埴輪にも開口部の上下に、扉の軸を受ける穴が作られている。
この時代には、扉はかなり普及していたと考えられる。
また、奈良県佐味田 古墳出土の「家屋文鏡」には、高床式など4種類の住居が描かれているが、最も素朴な竪穴式住居には、外に跳ね上げられた戸とそれを支える棒がみえる。垂直軸ではなく水平軸によって開閉する扉であり、蔀戸の原型と考えられる。
弥生時代の大工道具は、斧、のみ、錐、手斧(ちょうな 鍬形に取り付けた平たいのみ状の鉋の一種)、槍鉋(やりかんな )、小刀、鋸(押し挽きの小型のもの)などであった。
板材を作るには、斧で樹木を切り倒し、木目にそって楔やたがねを打ち込み木を割裂き、手斧や槍鉋で厚みを整えるという方法であった。
相当に武骨な板材で、今日からみれば考えられないような時間と労力を費やして、扉を作ったと思われる。
余談ながら、竪穴式住居は一般農民の住居として、永い命脈を保っている。
律令国家の中心地であった畿内地方でも、竪穴式住居が消滅するのは、八世紀の初めの奈良時代の終わり頃であり、畿内から遠い関東地方では、九世紀の終わり頃まで待たねばならなかった。
中央集権による律令国家の成立は、租税徴収が前提である。
農民は農奴として土地に縛りつけられ、さらには国家的土木工事や寺院建築に狩りだされることとなり、窮乏生活を強いられた。
古墳時代の竪穴住居と比較し、奈良から平安時代には、次第に小さな竪穴住居となり、農民の窮乏ぶりを窺うことができる。
竪穴住居の扉は、水平軸の跳ね上げ式の、簡素な編垂蔀(あみだれしとみ)であった。