ふすまの歴史     

■湿気と日本家屋

  日本の気候は、夏の高温多湿が特徴の一つである。古代以来蒸し暑い夏をいかに過ごすかに悩み、住まいにさまざまの工夫をこらしてきた。
  吉田兼好の『徒然草』に

   「 家の作りようは 夏をむねとすべし 冬はいかなる所にも住まる
                    暑きころ わろき住居は堪えがたきことなり 」とある。

 日本の住まいは、木と草と紙で構成される和風建築を育み、独特の湿気の日本文化を育てた。

  木造住宅が発達したのは、木材に恵まれているという条件と、何よりも湿気の調節がきくことの意味が大きい。
  高床式の構造に、茅葺きの屋根を高くし、庇を長くし、泥壁に畳、そして木製の建具に和紙を貼っている。これらはすべてが自然の素材で、湿度が高いときには湿気を吸収し、湿度が低いときには湿気を放出する調湿機能を持っている。
  建物が大きくなり、屋根が瓦屋根になると、室内には明かり障子、ふすまや衝立、屏風などをを配置する。これらには和紙が貼られ、湿度、温度の調節を行っている。
  これらの和紙にはいずれも植物繊維(主成分はセルロース)が原料で、紙自体が多孔質構造で表面積が非常に大きく、水分の吸収脱着を自然に行っている。
  しかも障子やふすまは、開け放すことで解放空間ができ、家中を風が吹き抜ける。
 また障子やふすまで仕切り、屏風や衝立で囲めば冬でも暖かく過ごせる。和紙の保温性は想像以上で、紙衣(紙子とも書く)や紙衾(紙でできた寝具)として衣料の代用としても用いられたことでもわかる。

  和紙と建具


■ふすま障子の誕生

  障子という言葉は、もともと隔ての意で、屏風・衝立・御簾・など間仕切りのの総称であった。
  これらの間仕切り障子に、絹布・麻布・葛布などを張り、その上から仏画・唐絵を描いた。平安時代からは、大和絵が盛んに描かれるようになった。
  平安時代の貴族の邸宅の典型は、寝殿造りである。           
 寝殿造りは、大広間様式で構造的な間仕切りがなく、壁面以外の外部への開口部は蔀戸が設けられ、内部は衝立、御簾、几帳、屏風などで間仕切って使用していた。
  衝立や屏風には、唐錦(綾錦)の幅の広い縁取りが付けられ、軟錦と呼ばれた。屏風はこの衝立障子を縦長にしたもので、正倉院の「鳥毛立女屏風」のように、はじめは各扇が一枚ずつ離れていた。その各扇を襲木(押木、縁)で枠をつけ、革ひもで繋ぎ合わせていた。平安時代に入って、この革紐にかわって紙蝶番が使われるようになり、連続した広い画面にパノラマ絵が描かれるようになった。 
 正式な請客饗宴や儀礼の時には、母屋と庇の間の柱間に、軟錦で縁取りされた副障子(押障子)をはめ込み、室礼として使用した。        

一本の樋(溝)を設けて落とし込んだ、取り外し可能な張り付け壁の副障子が基となって、のちに鴨居と二本の樋を設けて開閉して通り抜けができる、通入障子(鳥居障子ともいう)が工夫された。いわゆる引き違いの通入障子が、遣戸(板戸)や襖障子の考案につながった。遣戸は廊下と室内の間仕切りに、襖障子は室内の間仕切りに使用されるようになっていく。      
  衝立、屏風、張り付け壁、そして襖障子には、当初は麻布、葛布、絹布などが貼られていた。絹布には仏画・唐絵などの絵付けを行い、平安時代にはいると大和絵も描かれ、軟錦で縁取りされるようになった。       
 絵の達人で大和絵の創始者とされている巨勢金岡が、時の関白藤原基経の以来で屏風に大和絵を描いたという記録がある。

 ■からかみの国産化

 絹織物は高価であり、紙漉きの隆盛にともない、徐々に絹布に代わって紙が貼られるようになっていった。当初は「唐」からの舶来品の、紋様や図案が雲母で擦り込まれた厚手の「唐紙」が使用された。平安時代に入り、製紙の技術が格段に向上して、雁皮を原料とした厚様の紙が漉かれるようになって、唐紙も国産化されるようになった。
  国産化の試みは、唐紙の紋様や図案を中国では「花文」とよんでいたものを、とくに詠草料紙の雁皮紙に描き出すことから始まり、しだいに厚葉の鳥の子にも使用した。
 唐紙は、胡粉(鉛白を原料とした白色顔料で、室町期以降は貝殻を焼いた粉末を用いた)に膠をまぜたものを塗って目止めをした後、雲母の粉を唐草や亀甲などの紋様の版木で摺り込んだものである。   
  国産化された唐紙は、斐紙(雁皮紙)に「花文」を施したもので、「からかみ」「から紙」と表記された。
  『新選紙鑑』には、襖紙のことを「からかみ」とし、

  「から紙多く唐紙といふ。しかれども毛辺紙にまぎるるゆへ  
                       ここにから紙としるせり」
 とある。

   『八条相国日記』の天政二年十月(1124)の条に、

    「唐紙屏風二帖・・・」とあり、

屏風や襖障子に、からかみが張られるようになった。

  もともと、衝立、屏風、襖障子には絹織物を張り、絵を描きさらに色紙形を押したりしていたが、唐紙の紋様を厚葉の鳥の子紙(雁皮紙)に写すようになつて、襖障子に愛用されるようになった。
  藤原道長の『台記別記』の久安六年(1150)の条に、

 「正式の座敷の障子には絹を張るべきだが、今は唐紙で代用している。」(意訳)とある。

  『長門本平家物語』平兼隆被討(1180)の条には、

 「火白くかきたて、からかみの障子を立てたりけるを、細目にあけて・・・」とある。

  藤原家良(1191〜1264)選の『新選六帖』には、

 「今宵さへ ことしげしとて逢ふことを  違へ遣戸の立てる からかみ」 と詠んでいる。

 主に絹布を張った襖障子に「からかみ」を張った障子を「からかみ障子」と呼んだ。
 唐紙は、唐から輸入される紙の総称であり、写経用の料紙や、詠草料紙が当初の中心であり、のちに「花紋」を施した文様絵付けの紙がもたらされている。
 このため国産化された文様絵付けの紙は、「からかみ」「から紙」とひらがなで書き、「唐紙」と区別した。
 さらに鎌倉時代の襖障子の普及と共に、「からかみ」は襖障子の総称に転じていくことになる。

■源氏物語とふすま障子

  『源氏物語』は、紫式部という宮廷の才女によって書かれた、一大長編物語であり成立は一〇一一年頃である。『源氏物語』の中に、

 「開きたる障子を 今少しおし開けて ・・・ こなたの障子は引きたてたまいて」 と、あり

また障子に歌を書き付ける話が何度か出てくる。       

  明かり障子に文字を書くことはなく、襖障子には歌などを書き記すことが行われた。
 当時は、物事を直截に表現しないのが習わしであり、間仕切りはすべて障子と称した。しかしながら、前後の文章から明らかに「襖障子」の事であることが知れる。『源氏物語』の中には、ふすま障子をありふれた情景として描いている。この頃になると、貴族や上流階級の邸宅には襖障子がかなり普及していたと判断できる。『源氏物語』が書かれてから凡そ一〇〇年後の、藤原隆能の描いた「源氏物語絵巻」は、日本最古の絵巻物語である。家屋はすべて屋根や天井を省略した吹き抜け屋台となっているため、室内の様子が良く分かる。      

  また、平安末期の『餓鬼草紙』『病草紙』、鎌倉時代の『春日権現験記絵』『法然上人絵伝』『一遍上人絵伝』などの多くの絵巻物に、数多く「からかみ障子」が描かれている。
 これらの絵巻物のおかげで、衝立、机帳、御簾、屏風などの建具の使用状況と、襖障子に大和絵などが描かれているのも分かる。 

 
■明かり障子

  明かり障子のすばらしさは、壁や遣戸のように外界との遮断をせず、外界の雰囲気を、光と陰で豊かに取り入れ、住む人に自然との融和の中での安らぎを与えている。
  西欧の住まいは、歴史的に自然や外敵から身を守る堅固な砦の発想に基づき、外部との遮断が基本にある。居住性よりもむしろシェルターのような安全性の機能が優先されていた。この点が日本の伝統的な和風建築との決定的な相違となっている。
  開閉自在の引き違い建具、遣戸とふすま建具の発明は、必然的に明かり障子の発明へと連なっていった。                  
 縁側に設けた遣戸は、開閉自在ながら閉めてしまえば室内が暗くなる。冬場でも、明かり採りのためには、寒くても遣戸を少し開けておかねばならない。冬場の昼間の明かり採りの必要から、明かり障子が発明された。    
 当初の明かり障子は、ふすまと同様に薄絹が貼られたようである。  

 ふすま障子は、組子構造になっており、絹や唐紙の代わりに中様の楮の和紙を片面に貼ることで、採光と防風,防寒を両立ちさせたと、考えたいが少し回り道をしたようだ。

 明かり障子の発想は、まず遣戸の杉板の代わりに、薄絹を張り採光を果たしたと思われる。
 此の当時の明かり障子は、『平家納経』の図録によると、四週に框を組み、数本の竪桟と横桟をわたし、片面に絹または紙を貼ったと見られる。 明かり障子も当初は寝殿造りなどの貴族の邸宅に採用され、ふすま障子と同様な漆の塗子の障子で引き手には総が付けられていた。 
 今日的な組子桟の明かり障子は、『春日権現験記絵』『法然上人絵伝』など鎌倉時代の絵巻物に数多く描かれている。
 『平家納経』の太い框と太い竪桟、横桟の明かり障子から、細い組子桟へと改良されている。
 今日の発想から考えれば単純な連想だが、ふすま障子の発明から明かり障子の発明まで凡そ一〇〇年の歳月を必要とし、平安末期に至った。    
  平安末期の嘉承二年(1107)の『江談抄』に、文書を曝すときに四面に明かり障子を立てると記されている。
  平清盛の邸宅六波羅泉殿は、それまでの寝殿造りとは異なり、建具が多用されている。特に寝殿北庇の外回りに「アカリショウジ」が三間にわたって使用されている。

 治承二年(1178)の『山槐記』には、六波羅泉殿の寝殿や広庇について、「庇の明かり障子を撤去する」とか「明かり障子を立つ」などと記されている。
 明かり障子もふすま障子と同様に、障子全面に紙を貼っていた。ところが、風雨の激しいときには、障子の下の部分が濡れて破れやすい。実際の使用状況を絵巻物で見ると、半蔀戸を釣って内側に明かり障子をたて、下半分の蔀戸は立て込んだままになっている。このような状況から、明かり障子の下半分に板を張った腰板つきの障子が考案された。腰高は約八〇pで、ちょうど半蔀戸と同じ腰高となっている。

  南北朝時代の観応二年(1351年)に描かれた、真宗本願寺覚如の伝記絵『慕帰絵詞』に、僧侶の住房に下半分を舞良戸仕立てにした、腰高障子が二枚引き違いに建てられているのが描かれている。 
  『徒然草』一八四段には、松下禅尼が明かり障子の破れたところを張り、息子の北条時頼に質素倹約を教えた話を記している。

 鎌倉時代以降書院造り建築が増えるにつれて、明かり障子が普及していった。『大乗院寺社雑事記』には、長禄二年(1458)十二月の条に、障子用として厚紙一三○枚を用いたとの記録がある。毎年の歳末には障子紙を張り替える習わしであった。
  室内を明るくする採光を目的とした明かり障子は、透光性のよい薄い紙が良いが、破れにくい粘り強さが必要であり、また価格も安い物が好まれる。このような条件を満たす紙としては、壇紙や奉書紙、鳥の子などは不適当で、障子紙としては雑紙や中折紙など、文書草案用や雑用の紙を用いた。なかでも美濃紙は美濃雑紙と呼ばれて、多用途の紙として最も多く流通していたので、障子紙としても多用され、美濃雑紙が明かり障子紙の代表として評価されるようになった。 

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