太子町
秋晴れの爽やかな体育の日の朝、弁当を持って妻と二人で何処か公園へ出かけようと急に決めた。
 昼食を公園で摂る予定だから、遠くは無理で、奈良方面の地図を広げて、唐突に明日香の里へ出かける事になった。妻の手作りの弁当を持って、車で出発したのは十一時過ぎであった。
 明日香村へ行くのは初めてではない。たぶん三回目になるはずだが、頭が冴えていず、ルートがすぐに頭に浮かばない。以前は、西名阪道路を郡山インターで降り、橿原神宮を経由して明日香へ行った。今回は下道を辿るつもりなので、車のナビに近鉄橿原線飛鳥駅をセットして、車を走らせた。

 
 貴志駅から美原―太子線を東に走ると、聖徳太子にゆかりのある叡福寺の前に出た。叡福寺は、聖徳太子墓を守護するために、推古天皇によって建立され、奈良時代に聖武天皇が大伽藍を整備したと伝えられている。
 
織田信長の兵火によって、一時は全山が焼失したが、豊臣秀頼の聖霊殿再建に始まり、順次伽藍が再興された。
 叡福寺は、聖徳太子信仰の霊場として発展し、太子の忌日を偲んで行われる大乗会式は、今日でも毎年四月十一・十二日多くの参詣者で賑わうという。
叡福寺の聖霊殿は、太子堂とも呼ばれ、聖徳太子の十六歳像を祀っている。縁高欄擬宝珠によって、慶長八年(一六O三年)に豊臣秀頼が、伊藤左馬頭則長を奉行として再建したことが知れる。
 昭和五十二年に、国の重要文化財に指定されている。
叡福寺へ寄る事は割愛して先へ進んだが、聖徳太子ゆかりの太子町について触れておく。

太子町は、大阪府の東南部に位置し、北を羽曳野市、西を富田林市、南を河南町に接しまた東は金剛生駒紀泉国定公園となる金剛・葛城の山々を介し、奈良県の香芝市、當麻町と接した、豊かな緑と歴史に包まれた町である。
 昭和三十一年九月三十日に、当時の磯長村(しながむら)と山田村が合併し、聖徳太子にちなんで太子町と名付けられた。

聖徳太子は、推古天皇の摂政となり、十七条憲法や、冠位十二階の制定、遣隋使の派遣などによる大陸外交の推進によって、多くの大陸の制度や文化を積極的に取り入れた人物として、歴史上最も良く知られている人物の一人である。
 太子町では、この聖徳太子の
「和を以て貴し
となす」をモットーに、町作りを推進しているという。現在の町の人口は、
14,571
人で、静かな町並がある。     

  二上山

太子町の東に、駱駝の背のような美しい姿で聳えている「二上山(にじょうざん)」は町のシンボルである。
二上山は、北側の高い峰を雄岳(五一七m)と、南側の低い峰を雌岳(四七四m)を併せて呼ぶ名で、かつては「ふたかみやま」とも呼ばれ、万葉集にも詠われるなど、数多くの歴史に彩られた山として知られている。
 太子町の歴史も、まさにこの二上山から始まっている。

今から凡そ二千万年前頃に、大噴火した火山というのが、二上山である。
この噴火によって出来た二上山は、様々な火成岩を生み出した。その中でも、サヌカイと、屯鶴峰(どんづるぼう)に見られる凝灰岩(ぎょうかいがん)、ざくろ石(金剛砂 こんごうしゃ)は、全国的にも珍しいものである。サヌカイトは、産出されるのが全国でも讃岐(香川県)と、この二上山を中心に瀬戸地方だけと言う珍しい石である。
 「サヌカイト」、「凝灰岩」、「金剛砂」の三つの石によって、「二上山」は、旧石器時代から、山の美しい姿によって人々に深い感動を与えただけでなく、人々の暮らしの中で、深い関わりを持って来たのである。山麓から産出するサヌカイトと呼ばれる石は、数万年前の旧石器時代以降、石器の材料として広く近畿一円で利用された。

大規模な火山噴火の際に、流れ出た膨大な量の溶岩流の中には、急激に冷やされた為に、特にガラス質になっている部分もあった。
 ガラス質溶岩は、普通の溶岩に比べて非常に堅く緻密で、真っ黒な外見を持っていた。それがサヌカイトであり、
遙かな二万年前の飛鳥に住んだ先史時代人は、この堅い石を割る独特の技術を考案して石器を作っていた。石斧、石包丁、槍先、鏃などを使って、狩りをし、獲物を捌く等に利用していたのである。
 このサヌカイトで出来た石器は、実に一万年以上に渡って、日本各地で使われていた事が分かっている。 わゆる石器時代であり、サヌカイトが道具の主役の時代であったと言える。
紀元後暫くして、大陸から伝わった金属器に取って代わられる迄での長い間、サヌカイトは生活道具を作るのに用いられた。シカやイノシシの狩猟、さらには戦いの場でも、主役を果たしたのである。厳しい自然と闘いながら、生きる営みを続けた先史時代人の、生活を支えたのはサヌカイトである。

この石のもう1つの大きな特徴は、緻密でガラス質であるが故に、叩いた時に、独特の金属的な音を発する事である。
 この美しい音色は、昔からしばしば、楽器として利用されてきた。ナウマン象の命名者として、日本でもよく知られている、ドイツの地質学者ナウマンは、日本の讃岐地方には、叩くと金属音を発する「かんかん石」と呼ばれる石材があると、一八八五年にドイツの学術誌に発表している。

 古代中国では、音の出る石を利用した石の楽器を利用していた。
 「周代楽器之最珍貴者」として周礼、礼記などに石の楽器を見ることができ、礼記・楽器篇・第十九には、
『石声は磬なり、磬以て辨を立て、辨以って死を致す。君子磬声を聴けば、則ち封彊に死せる臣を思う。』とある。

 石の楽器、「磬(けい)」は、三千五百年前の古代中国殷代に、礼楽の為に、鐃・つちぶえ・鼓などと共に、八音を構成する楽器として用いられた。
 磬(けい・・
中国起源の打楽器。「へ」の字形の石の板を架に吊り、桴(ばち)で打ち鳴らす)には、特磬、編磬、頌磬、笙磬、玉磬などの別があり、玉磬は天子の楽器(日・礼記郊特牲)に使われた等の、記述もある。
 サヌカイトという名は、明治の文明開化政策を援助した、ドイツ人学者ヴァインシェンクによって命名されたも
ので、讃岐の石という意味を持っている。

                

       金山で発見された石器     故宮博物館に保存されている磬

二上山は、古来から奈良盆地の西にある、特異な姿の山として親しまれてきた。そして歴史上、悲劇の皇子、大津の皇子が葬られている所としても有名である。
 詩を佳くした才人大津の皇子が、持統天皇の時代に、皇統の跡継ぎ問題から、謀略によって二十四歳で処刑された。その時、姉の大伯皇女(
おおくのひめみこ)の詠んだ歌がある。

「うつ身の人にある吾や、明日よりは 二上山を弟世と吾が見む」(万葉集2― 165)

は、弟を失った、姉の切ない心を詠んだ秀作である。高い方の雄岳の頂上にある古墳が、大津皇子墓として、宮内庁で管理されている。
 が、近年、二上山の裾の方で発掘された、方墳の鳥谷口古墳が、それではないかと考えられて注目されている。これは横口式石槨墳と呼ばれる造りで、石で石棺と石室を一体として彫り上げたもので、終末期の古墳の特徴を備えている。

            

また、古代日本文学や民俗学の碩学、折口信夫の書いた小説、「死者の書」には、大津皇子と中将姫がモデルとして取り上げられ、時空を超えた不思議な物語を構成し、傑作とされている。
 また二上山は、古来聖なる山として、信仰上特別視されて来た。

 その頂上には、二上神社、裾には当麻寺の他に石光寺、高雄寺、当麻山口神社、鹿谷寺跡などが点在するが、珍しいものに傘堂がある。
 当麻山口神社の鳥居の北に、一本足の柱に立派な屋根をかけた建物がある。
 江戸初期の一六七四年に、大和郡山の城主本多政勝の死を悼んだ、この地の郡奉行吉弘統家が、菩提を弔うために建てたものが傘堂である。
 これは後の世の人達には、別のものとして信仰され、安楽往生を願って、この柱の周りを廻るとご利益があるとされている。

 約十年前から、自然公園「万葉の森」としても整備が進められ、梅・桜・紫陽花など四季折々の花が楽しめる。

 登山道沿いには、奈良時代の石窟寺院跡や悲劇の皇子・大津皇子墓などの史跡があり、山頂からは河内平野・奈良盆地はもとより、遠く大阪湾を隔てて淡路島や関空・六甲山,奈良県側では、大和三山が一望できる。

     竹ノ内街道

南麓を通る国道166号は、飛鳥時代に難波津から飛鳥の都に通じた最古の官道・竹内街道とほぼ重なっている。国道沿いの登山口には万葉駐車場(無料)もあり、家族連れでも手軽に登山が楽しめ、多くの人々に親しまれている。 一時間程度で登山できるというから、一度妻と登りたいと思う。
 
飛鳥時代この二上山の南麓に、推古天皇によって整備された大道が置かれた。
『日本書紀』の推古天皇二一年(六一三)に、
「難波より京に至るまで大道を置く」
とある。
 この大道こそが、日本最初の官道であり、後に竹内街道と呼ばれるようになった。その名は、葛城山脈の竹ノ内峠に由来する。
 難波(なにわ)の港や、難波の宮から、南河内の今の太子町を抜け、二上山南の竹内峠を通って、大和の竹ノ内から飛鳥に至る。
 竹ノ内峠(鶯の関)を越え大和側に入って、最初の村が竹ノ内の集落である。かつては峠に宿屋、茶屋などが有ったといわれる。

この大和の竹ノ内の里は、司馬遼太郎の母方の出身地で、子供の頃一時住んだ事があるらしい。司馬遼太郎は『竹ノ内街道』で、以下のように書いている。

 「古道である竹ノ内街道は大和高田で左に折れず、そのまま西走をつづけてまっすぐに竹ノ内峠に至る。その大和高田・竹内峠間の道路はいまは枝道になり、道ざまは鄙びて締まっている。われわれはそれをとる。これが古代のシルクロードともいうべき道だからである。」

 その竹内街道沿いに、司馬遼太郎の母の実家があった。
 

 「竹内に貧農なし、といわれて、むかしから暮らしやすい在所だったようにおもえる。坂がいよいよ急になり、車が村の中に入ったが、車窓から家並みをのぞくだけで、降りることは無精した。村の様子は、私の子供の頃とさほど変わりがない。『でえもんさん』とよばれている家が、私の母親の実家であるが、善右衛門という意味らしい。いまは従兄弟の代になって、叔父は数年前に亡くなった」

 子供時代の司馬遼太郎は、夏休みや正月に帰省し、村の子供らと走り回ったという。終戦直後にも焼け野原の大阪を避け、一家をあげて竹内で過ごしたこともある。

「私のこどものころ、村の子供のあいだでヤジリヒロイが流行した。・・・子供のかんで他の石ころとヤジリを見つける眼力ができ、半日タンボを歩くと二十も三十も拾えた。」

古くは、松尾芭蕉が、門人の千里(ちり)が戸竹ノ内の住人であったので、何度もこの地を訪れ、千里宅に滞在したことが「野ざらし紀行」に記されている。

「綿弓や 琵琶になぐさむ 竹の奥」

が有名な句で、千里宅跡の近くに、綿弓塚(江戸時代1809年)が建てられた。

遣隋使として知られる小野妹子は、この竹内街道を通って遠く大陸をめざした。また大陸から遙々やって来た使者達や渡来人達は、逆にこの竹内街道を通って都のあった飛鳥へ向かったであろう。街道は、人々の往来と共に、様々な文物が往来した。
 特に水路の便を持たない飛鳥京にあっては、竹ノ内街道が、謂わば大陸からの大動脈としての役割を担った。
 難波の津から陸揚げされた、大陸伝来の様々な文物、そして仏教教典や、招聘された僧侶、そして建築や土木、機織、紙漉などの技術者としての渡来人などが、竹ノ内街道を通って飛鳥へやって来た。
 飛鳥京は、竹ノ内街道に拠って大陸とつながり、仏教と先進文化、技術や国家の制度までを取り入れて、力の支配する豪族連合国家から、律令国家へと体制を整備する事が出来た。
 秦の始皇帝が、最初に行った大事業は、主要各地への官道の建設であった。この官道があればこそ、広大な国家を統一出来たといえる。文物と情報と、人の交流が有ればこその国家体制である。 
 飛鳥の地が、飛鳥時代と言われる時代を、政治文化の中心として営む事が出来たのは、まさにこの竹ノ内街道があったからだと言える。

 

     近つ飛鳥

 この頃、大和の飛鳥が「遠つ飛鳥」と呼ばれたのに対し、太子町周辺は「近つ飛鳥」と呼ばれていた。
 近つ飛鳥という地名は、七一二年に口述筆記された「古事記」に記載がある。
 履中天皇の同母弟(後の反正天皇)が、難波から大和の石上神宮に参向する途中で二泊し、その地を名付け、近い方を「近つ飛鳥」、遠い方を「遠つ飛鳥」と名付けたというものである。
 「つ飛鳥」は今の大阪府羽曳野市飛鳥を中心とした地域を指し、「遠つ飛鳥」は奈良県高市郡明日香村飛鳥を中心とした地域をさしている。

 近つ飛鳥の地は、難波の津と、大和飛鳥を結ぶ、古代の官道である竹内街道の沿線にある。周辺には、大陸系の遺物を出土する、六世紀中葉以降の古墳群が広がっている。
 安藤忠夫が設計した「近つ飛鳥博物館」がある。太子町の仕事の帰りに偶然発見して、君と立ち寄った博物館である。以下は、近つ飛鳥博物館のホームページから引用する。

「平成六年三月二十五日、大阪府河南町・太子町の地に、待望久しい大阪府立近つ飛鳥博物館が開館いたしました。
 博物館の「近つ飛鳥」という呼び名は、『古事記』の中に典拠がありますが、難波の宮などから近い方の飛鳥(河内の飛鳥)と、遠い方の飛鳥(大和の飛鳥)という呼び方をしたというので、命名したものです。
 河内の近つ飛鳥の地は、多くの渡来人が住み、渡来文化が真っ先に流入した古代文化の先進地域であります。
 古墳時代から、飛鳥時代にかけての文化遺産を中心に、「日本古代国家の形成過程と国際交流をさぐる」という当館のメインテーマに最適の地である訳です。
 当館の南には「大阪府立近つ飛鳥風土記の丘」が広がっています。
 日本の代表的な群集古墳である、一須賀古墳群を保存し、その学術的価値を認識し、かつ貴重な文化財に触れ・学び・親しむ場として設置した史跡公園です。博物館はこうした緑に包まれた環境の中で、周辺の文化遺産や自然と、みごとに調和した施設でもあります。  古墳文化・飛鳥文化の情報センタ一として、また、生涯学習や学校教育の場としてより発展していきますよう、今後とも皆様のあたたかいご支援を賜りますことをお願い申し上げます」とある。

『新撰姓氏録』によれば、河内の氏族のうち約三割が、中国・朝鮮半島から移住して来た渡来系氏族であったとされる。
 近つ飛鳥周辺には百済系(飛鳥戸造、上曰佐)、新羅系(竹原連)、中国系(下曰佐、田辺史、山代忌寸)の渡来系氏族が居住していたという。
 平安時代初頭に編まれた、古代氏族の系譜集成である「今来才伎(いまきのてひと)」とは、「雄略紀」によれば、百済から献上されたと伝えられる人々のことである。
 彼らは、高度な学芸的知識と技術をもって時の政権に仕え、五〜七世紀に大いに活躍したという。渡来系の著名な氏族には秦(はた)氏、東漢(やまとのあや)氏、西文(かわちのあや)氏、坂上(さかのうえ)氏、高向(たかむこ)氏、鞍作(くらつくり)氏などがいる。
 聖徳太子は、遣隋使を大陸に送り、仏教と共に大陸から多くの技術者を招来して、飛鳥の地に住まわせ、大陸の先進技術を取り入れた。それらの技術者が、渡来系の氏の人々である。
例えば、秦(はた)氏は、機織りの技術者集団で、糸を紡ぐ技術から、製紙の技術者もいて、製紙の技術も伝えた。後の奈良時代に設立された、官営の紙漉場「紙屋院」の指導は、秦(はた)氏が行っている。


王陵の谷

 古市古墳群に、大王級の古墳が築造されなくなった六世紀後半から、その南東の磯長谷とよばれる細長い、山と谷が集まる所に大型墳が出現するようになった。
 この地には、『記紀』による天皇陵の伝承が有る事から、エジプトの王家の谷になぞらえ、いつしか「王陵の谷」と呼ばれるようになった。
 磯長谷(しながだに)には、天皇陵の伝承のある古墳の他、南に百済系の横穴式石室を端緒に、六世紀第一四半期から、築造を開始し約二百五十基が密集する一須賀古墳群がある。
 北に終末期古墳に特徴的な、観音塚古墳などの横口式石槨墳と、七世紀後半を中心に展開する飛鳥千塚古墳群がある。
 南東には、推古陵候補の双方墳の二子塚古墳など、古墳時代後期後半期の重要な古墳があり、国指定史跡となっている。
 太子町南部の磯長谷(しながだに)には、聖徳太子霊廟、そして敏達・用明・推古・孝徳の四基の天皇陵墓など、飛鳥時代の大古墳が集まっている。

この王陵の谷には、新しい構造の石棺式石室を持った、渡来的色彩の豊かな飛鳥官人の墳墓、前方後円墳・前方後方墳・双円墳、或いは大型方墳など、多様な豪族の古墳、有力家族の共同墓地・一須賀(いちすか)古墳群、帯金具や墓誌を伴った奈良時代の古墳、律令文化の華ひらく古代寺院、など、枚挙にいとまがない。
 太子町にある数多い古墳群の中で、主なものについて記しておく。

聖徳太子墓
 推古天皇の摂政として、十七条憲法や冠位十二階の制定、遣隋使の派遣などの進んだ政治制度や文化を取り入れ、政治改革を図った聖徳太子は、日本書紀によると推古二十九年(621)に亡くなり、磯長(しなが)の地に葬られた。
 太子墓は径五十m、高さ十mほどの円墳で、内部は精巧な切石を用いた横穴式石室である。
太子と母君の穴穂部間人皇后、妃の膳郎女の三人の棺が納められていると伝えられることから、三骨一廟と呼ばれている。

推古天皇陵
 日本で初めての女帝である第三十三代推古天皇は、聖徳太子を摂政にし、大陸の隋との交渉によって、先進的な政治制度や文化、芸術などを積極的に吸収し、政治の改革や仏教文化を中心とした飛鳥文化を花開かせた。
 推古天皇陵は、東西に長い三段築成の長方墳で、内部には二つの横穴式石室があると考えられている。太子町には、同様に一つの墳丘に二つの石室をもった古墳として、西約五百mに位置する葉室塚古墳が知られている。

 敏達天皇陵(太子西山古墳/奥城古墳)]
 第三十代敏達天皇は、五七二年に即位され、死後母君の石姫皇后の墓である、磯長の陵に葬られたと『日本書紀』は記している。
 敏達天皇陵は、全長約九十三mの、磯長谷(しながだに)では、唯一の前方後円墳で、周囲には空濠を巡らせている。
内部については全く分からないが、横穴式石室が採用されていると考えられている。また周辺から埴輪が採集され、これらから古墳時代の後期前半に築造されたと考えられている。

 用明天皇陵
 第三十一代用明天皇は、『日本書紀』によれば、磐余の池上の陵に葬られるが、その後、推古元年(五九三年)に「河内の磯長の陵」に改めて葬ったと記録されている。用明天皇陵は、東西六十五m、南北六十m、高さ十mの方墳で、周囲には幅七mの空濠を巡らせており、この濠の外堤迄を含めた規模は、一辺百mに達する巨大な規模を有している。
墳丘規模や形は、蘇我馬子の墓と言われる石舞台古墳とよく似ている。

 孝徳天皇陵(山田上ノ山古墳)
 大化改新後に即位した、第三十六代孝徳天皇は、改新に功績のあった蘇我倉山田石川麻呂らを政権に登用し、改新政治を推し進めた。
 しかし中大兄皇子らと不仲となった天皇は、難波宮で白雉五年(六五四年)、孤独のうちに亡くなり、大坂磯長陵に葬られた。
 竹内街道沿いに位置する陵は、別名「うぐいすの陵」と呼ばれる、直径約三十mの小さな円墳だ。かつて陪塚から出土したと伝えられる、海獣葡萄鏡という鏡が知られている。

二子塚古墳 国史跡
 推古天皇陵の南東二OOmに位置する二子塚古墳は、方墳を二基つなぎ合わせた双方墳という珍しい形式を有している。東西の墳丘それぞれに、ほぼ同形同大の横穴式石室があり、石室の使用石材の隙間や表面に、漆喰を充填塗布している。
 また蓋の縄掛突起が退化した、カマボコ形を呈する家形石棺が、それぞれの石室に納められている。地元には、本墳こそが、本当の推古天皇と、竹田皇子の合葬陵であるとする言い伝えがある。

仏陀寺古墳 府指定史跡
 仏陀寺古墳は、二上山から産出する凝灰岩を、刳り貫いて造られた横口式石槨を持つ古墳で、中大兄皇子と共に大化改新を実行した、蘇我倉山田石川麻呂の墓と伝えられている。改新政権では、右大臣となった石川麻呂だが、密告により謀反の疑いをかけられ、氏寺の山田寺で一族と共に自害した。
 太子町には、この他にも蘇我氏に関わる伝承などが多く伝えられており、蘇我氏と関係の深い地域であったと考えられている。

御嶺山古墳 府指定史跡
 七世紀末から八世紀初め頃に造られた、いわゆる終末期古墳で、直径約三十m、高さ約三mの円墳、横口式石槨を主体部としている。
 石槨内部に据えられた棺台の側面には、格挟間と呼ばれる仏教的な装飾を施している。かつて漆塗木棺の破片と共に、金銅製の錠金具や、琥珀製の棗玉、ガラス玉などが出土しており、その一部は大阪府立近つ飛鳥博物館で展示されている。
 昭和四十七年に大阪府指定史跡に指定されている。

一須賀古墳群 国史跡
 一須賀古墳群は、六世紀中頃から、七世紀前半にかけて築造された群集墳で、府内でも有数の群集墳として知られている。
 総数は二00余基と言われており、大半は直径十〜二十m程度の円墳である。
 副葬品に舶載品と考えられる、金銅製の沓や、垂飾付耳飾、ミニチュアの炊飯具などが見られる事と、北側に位置する、七世紀の王陵群である、磯長谷古墳群との強い結び付きが想定される事から、朝鮮半島から、もたらされた新しい技術力を背景に、有力氏族が掌握した、渡来系氏族の集団墓と考えられている。

小野妹子墓(おののいもこのはか)
 科長神社南側の小高い丘の上に、古くから小野妹子の墓と伝えられる小さな塚がある。小野妹子は、推古天皇の時代に遣隋使として、当時中国大陸にあった隋という大国に派遣された人物である。
 小野妹子が、聖徳太子の守り本尊の、如意輪観音の守護を託され、坊を建て、朝夕に仏前に花を供えたのが、池坊流の起こりに成ったとされる事から、現在、塚は池坊によって管理されている。

鹿谷寺跡(ろくたにじ) 国史跡
 奈良時代に、二上山山麓に造られた鹿谷寺跡は、凝灰岩の岩盤を掘り込んで作られた、大陸風の石窟寺院である。
 中国大陸には、敦煌や龍門石窟など、数多くの石窟寺院が見られ、奈良時代に迄遡る、本格的な石窟寺院は、我が国では、二上山山麓以外には知られていない。
 寺跡の中心部には、十三重の石塔と、岩窟に彫り込まれた、線刻の三尊仏坐像が遺されており、かつてこの周辺から、日本最古の貨幣といわれる、和同開珎が出土している。

 松井塚古墳の石槨 府指定文化財
 昭和三十三年、仏陀寺古墳の西百mから、井戸掘り作業中に発見された松井塚古墳は、狭い石室内部に、二上山から産出する、凝灰岩製の横口式石槨を納めた、初期の終末期古墳である。発見当時は、「推古天皇陵の陪塚ではないか」として、新聞紙上をにぎわした。 石槨は現在、叡福寺境内に移築展示されており、昭和四十八年に大阪府指定有形文化財となっている。 

西方院
 聖徳太子の死後に、その乳母であった月益姫、日益姫、玉照姫(それぞれ蘇我馬子、小野妹子、物部守屋の娘とされる)の三人が、剃髪して仏門に入り、墓前にお堂を建立して、太子の冥福を祈ったのが、寺の始まりと伝えられている。
 寺の南側の墓地内には、この三尼公の御廟と伝えられる三基の石塔が残されている。本尊は、聖徳太子作と伝える阿弥陀如来と、恵心僧都作と伝える十一面観音菩薩像である。

飛鳥(トブトリ)の明日香

さて、王陵の谷を彷徨い過ぎた。
 車を前へ進めると、美原―太子線は、叡福寺を過ぎて六枚橋で竹ノ内街道にぶつかる。現在の国道166号線である。
 この古代の官道であった竹ノ内街道は、二上山の麓を走り抜け、當麻町を通って大和高田へ出る。さらに櫻井市方面へ走ると、橿原市市街に出て、169号線と交差している。 角に建っている立派な「万葉ホール」を右折し南下して行くと、やがて明日香村へ辿り着く。
 ところで飛鳥という地名は、現在では、明日香村を中心として、橿原市・桜井市・高取町などの一部を含めて、広く飛鳥と呼ぶことが多い。
 しかし、七、八世紀には、香具山より南、橘寺付近より北で、飛鳥川より東の地域を、主に飛鳥と呼んでいたという。
 藤原宮はもちろん、現代の豊浦・桧前なども飛鳥には含まれなかったらしい。

 さて、明日香村へ入る前に、飛鳥についての疑問を解いておきたい。
 疑問とは、「トブトリ」と書いて、何故「アスカ」と読むかという素朴な疑問である。 長年放置してきた素朴な疑問に付いて、明日香村から帰ってから調べた。

「飛鳥(トブトリ)の明日香」
 と、明日香の枕詞として、飛鳥(トブトリ)が使われていた。
 やがて、飛鳥といえば、それだけで、アスカという代名詞に用いられるように成り、時間の経過とともに、飛鳥がアスカと訓まれる様になったと言う説である。

 では何故、トブトリがアスカの枕詞となったのだろうか。
 空飛ぶ小鳥の姿が、アスカに見えたので、アスカの字に「飛ぶ鳥の」という説明の言葉を冠せたという説である。
 アスカの地名としては、飛鳥の字が一般的に定着しており、昭和三十一年に高市村、阪合村、飛鳥村の、三村が合併して今の明日香村が生まれた。
 明日香村は、現代的感覚で新しく造られた名前のように思っていたが、実は古代から使われていた表記であった。
 アスカの表記について、古事記、日本書紀、万葉集等に、「明日香」、「飛鳥」、「安宿」、「阿須賀」、「阿須可」、「安須可」等、色々の文字が用いられてきた。
 地名あるいは川の名前として、「明日香」及び「飛鳥」は最も頻繁に用いられている。
 古事記、日本書紀では、主として飛鳥が用いられ、万葉集では、明日香と出てくる場合が多く、「飛鳥」は、アスカという場合と、トブトリとして明日香の枕詞になっている場合とがある。

次に、アスカの名の起源についての諸説について触れる。
 まずは、渡来人の命名説である。朝鮮半島の渡来人が大和に来て、安住の宿とした場所を、安宿(あすか)と名付けたという説である。
 安宿は、朝鮮語でアンスク、これが訛ってアスカになったという説である。

 また、古代朝鮮語で村を意味するスカに、接頭語のアがついて出来たという説もある。 さらには、仏教発祥の地インドの、アショカ王の名前から転化したものであるという説もある。
 インドではアスカとは、理想の楽園という意味の言葉だとも言われている。

 
 次は、
鳥に由来するという説である。
 古代では、年号等に白雉、朱鳥、白鳳と、鳥に由来する年号が用いられているように、鳥は、瑞兆として尊ばれた。つまり、アスカの音は、イスカという鳥の名前から転じたとする説である。

 次は、地形由来の説である。
 地形を表現する単語が、合成されて出来たもので、ア(接頭語)スカ(洲処・・川水、海水等によって生じた砂地)、或いはアス(浅す・・川、海等が浅くなる又は水が涸れる)+カ(処)若しくは、アス(崩地)+カ(処)であるという説である。
  飛鳥地方は、川原とか豊浦といった、水辺に関係ある地名が残っており、水(海)で覆われていた部分が、山の浸蝕土砂の堆積等によって、陸地化する過程で生まれた地名である。この説によると、横須賀等も同じ語源であり、アスカから訛った場合として、安積、朝香、浅香等があるという。

まだある。聖地に由来するという説である。
 スカという語が、イスケ、イスズ、ミソギ等と同様、禊(みそぎ)をする等の、神聖な意味を持ち、神聖地に用いられたという説である。

    

 国営飛鳥歴史公園

橿原市街から169号線を南下すると、ファミリーレストランやファーストフード店が多く、古代の浪漫の里へ向かっているという実感が湧かない。国道沿いの市街化された街並みは、雑然としていて無秩序に、資本の論理で開発されている。
 岡寺駅前の標識を左折すると、雑然とした賑わいの街並みが一転して、のどかな明日香の里へ入った。
 明日香の里は実りの秋を迎えた田園が広がり、民家も落ち着いた風情の佇まいである。不思議なことに、マンション等の集合住宅も見あたらない。
 最初に目指したのは、お昼の弁当を食べる予定の、甘樫丘国営飛鳥歴史公園であった。出発が遅かったので、時計はすでに午後一時を回っている。

国営飛鳥歴史公園とあるが、国立公園というのは聞いた事があるが、国営公園という名は初めてであり、国立公園とどう違うのだろうか。
 以下は、国営飛鳥歴史公園のホームページから引用する。

「わが国古代の政治と文化の中心として栄えた飛鳥。その豊かな自然と文化的遺産の保存・活用を図った施策の一環として整備されたのが国営飛鳥歴史公園です。
【都市公園法第2条第1項第2号のロ】 国家的な記念事業として、又はわが国固有の優れた文化的遺産の保存及び活用を図るための閣議の決定を経て、設置する都市計画施設である公園または緑地に基づく公園(ロ号国営公園)で、祝戸、石舞台、甘樫丘、高松塚周辺の四地区(総面積46.1ha)からなります。わが国固有の優れた文化遺産の保存及び活用を図るための公園としては、全国で初めてのものです。
 飛鳥地方の歴史的風土を保存し活用を図っていくため、必要な地域を拠点的に整備しています。祝戸地区は展望・散策及び宿泊研修機能、石舞台地区は史跡鑑賞及び休養機能、甘樫丘地区は展望及び散策機能、高松塚周辺地区は史跡や模写壁画の鑑賞の利便と管理機能というように、各地区ともそれぞれの歴史的蓄積や地形、植生、立地条件などを考慮し、周辺の歴史的風土と調和した景観となるよう設計・整備を行っています。また、明日香村内には周遊歩道が整備され、四地区一体となった利用が図られるよう配慮されています。」とある。

つまり、全国ただ一つの国営公園で、その目的は明日香村の文化遺産を保存する事にある。
 国営歴史公園とは、細長い甘樫丘だけと思っていたが、なんと明日香村全体に及ぶ四つの地区に国営公園があった。
 今日の散策予定の高松塚古墳周辺地区や、石舞台のある地区も国営飛鳥歴史公園となっている。明日香村が、数年前に訪れた時と変わらず、のどかな田園風景を保ち続けている理由が、成るほどと納得できた。
 甘樫丘の南の入り口に近い休息所で、弁当を開いた。
 休息所は、山小屋のような屋根の下に、板張りのステージがあり、ここで弁当を開いた。
 意外に人が少なく、静かな自然の中で食べるおにぎりは格別の味であった。
 公園内の案内地図を眺めると、かなり広い丘陵公園で、展望台もある。遊歩道が整備されていて、二カ所も展望台があり、散策を楽しむ公園のようであった。
 公園の案内には、

「甘樫丘は、蘇我蝦夷、入鹿親子の邸宅が在ったと言わている場所で、古代より上代の人々の国見や歌かがい、盟神探湯(くがたち)が行われた場所として有名です。
 展望台は、飛鳥古京(明日香村内)、大和三山とその中央に位置する藤原京(橿原市内)、遠くの生駒山、金剛山系の山並が望めるすばらしい眺望の丘です。万葉集などに歌われた植物を散策しながら楽しめる万葉植物園路などが設けられています。」
とある。

 弁当を食べ、食後のコーヒーを楽しんでいると、はや午後二時を回っていた。二十五ヘクタールもある広大な公園をゆっくり散策していたら、他へは回れない。
 公園南の駐車場にある芝生広場の手前に、ちょうど満開を迎えたコスモス畑があった。ここで記念撮影をして、高松塚古墳を訪ねる事にした。

明日香法

帰ってから国営飛鳥歴史公園を調べていたら、「明日香法」という法律が制定されている事を発見した。
 明日香の里の、歴史的風土を守る為に、国営飛鳥歴史公園の他にも、様々な法律によって、飛鳥の歴史と風土が守られてきた事が分かった。
 その為の「明日香法」という、特異な法律の制定に至るまでの経緯を述べる。
 
 昭和四十一年七月に「古都保存法」という法律で、明日香村が「古都」に指定されると共に、翌年十二月には、明日香村の一定区域が明日香地区として、歴史的風土保存区域(約三九一ヘクタール)に、また保存区域のうち石舞台や飛鳥宮跡地区が、歴史的風土特別保存地区(約六十ヘクタール)に指定された。
「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法」
に基づいて、古都に指定されると、建物等の新築・増改築、木の伐採、土や石の採取をする時には、知事への届け出と、工事に対する許可を貰う事が義務付けされた。

 昭和四十五年十二月に、明日香村に於ける歴史的風土の保存と、地域住民の生活と調和を図るために、次のことを骨子とする方策が閣議決定された。
 
 保存区域及び特別保存地区の拡大
 環境の整備(公園、道路、資料館、宿泊研修施設等)
 その他(歴史的風土特別保存地区の土地の買い上げ、保存財団の設立)

昭和五十四年三月、内閣総理大臣から歴史的風土審議会に「明日香村に於ける歴史的風土の保存と、地域住民の生活との調和を図るための方策について」が諮問され、同年七月には審議会から

「明日香村の特性に鑑み、特別の立法措置により、国家的見地から歴史的風土の保存のための方策及び、住民生活安定のための措置を講ずべき」

という答申が行われた。
 これを受け、昭和五十五年五月
「明日香村における歴史的風土の保存及び生活環境の整備等に関する特別措置法」
いわゆる明日香法が施行された。 
 その内容は以下の通りである。

国の施策
 明日香村保存計画、明日香村整備基本方針等の策定
 各種明日香村保存・整備事業に対する財政補助
 国営飛鳥歴史公園の整備・管理
 奈良国立文化財研究所による遺跡調査等

県の施策
 明日香村整備計画の策定
 第一種・第二種歴史的風土保存地区等についての都市計画決定・運用
 各種明日香村保存・整備事業の実施
 古都保存法に基づく土地の買入れ
 奈良県立橿原考古学研究所による遺跡調査等

明日香村の施策
 各種明日香村保存・整備事業の実施
 明日香村整備基金の運用
 明日香村教育委員会等による遺跡調査等
 各種住民活動に対する援助

(財)明日香保存財団の施策
 飛鳥地方における各種保存・整備事業の実施・助成
 飛鳥保存に関する調査・研究及び普及・啓発事業の実施
 総合案内所、研修宿泊所(祝戸荘)、高松塚壁画館の経営

となっている。これだけの法律的措置があればこそ、ゆったりとのどかな歴史風土の明日香村を、古代の浪漫に浸りながら、散策できるという訳である。
 そうでなければ、資本の論理で雑然とした市街化が進み、田園の中に電飾輝くパチンコ店が出現し、マンションがあちこちに建てられたはずである。
 今日は、この明日香法に守られた、古代の歴史風土の飛鳥の里を楽しみたい。

高松塚壁画館

車では五分程度で、国営飛鳥歴史公園館に辿り着いた。
 公園館の無料の駐車場の設備があるが、満車で入れなかった。公園館向かい側に、広い有料駐車場がある茶屋があったので、そこへ車を停めた。
 ここから高松塚古墳へは、広い芝生の公園を抜けてすぐに高松塚壁画館があった。
 壁画館は間口が狭いので、遠くから見ると、最初はトイレかと思ったくらい、ひっそりと建っていた。入場料を支払って中に入ると、意外に狭い展示館で、左右に高松塚古墳の玄室内部に描かれている壁画の模写が展示されていた。
 これは、絵師が二年かけて壁画を模写したものを展示しているという。

左右同じ模写絵が展示されているのかと思ったが、右側の壁画は、当時の現状をそのままに模写したもので、左側の模写絵は、損傷で欠けている部分や色彩が薄く成っている部分を想像で復元しているという。
 高松塚古墳は昭和四十七年三月、明日香村の依頼を受けた橿原考古学研究所の発掘調査により、千数百年の眠りから覚め、華麗な姿を顕した。
 「わが国考古学会の戦後最大の発見」といわれる極彩色の壁画をはじめ、副葬品など数々の貴重な資料が出土、その卓越した文化性は全国に「高松塚」ブームを巻き起こした。現在壁画は国宝に、古墳は特別史跡に指定され、再び密閉され永久保管が図られている。 この稀有の文化遺産の保存と、周辺環境の整備のため、昭和四十八年三月、郵政省は寄付金つき記念切手を全国発売している。飛鳥保存財団はこの寄付金を受け、高松塚古墳を恒久的に、広く紹介するため、古墳とその周辺の公園化、そして壁画館の建設に着手した。
 壁画館は、昭和五十二年三月より一般公開を開始し、昭和五十四年十二月には、昭和天皇陛下のご見学という光栄に浴した。
 館内には、壁画の検出当時の現状模写、一部復元模写、再現模写、墳丘の築造状態、棺を納めていた石槨の原寸模型、副葬されていた太刀飾金具、木棺金具、海獣葡萄鏡などの模造品を展示し、高松塚古墳の全貌をわかりやすく再現している。
 松下幸之助初代理事長の、明日香保存措置要請を受けて、昭和四十五年五月には、佐藤首相をはじめ、閣僚が明日香を現地視察、同時に「飛鳥古京を守る議員連盟」が結成された。十二月、歴史風土、文化財保護、両審議会の答申に基づき、飛鳥地方の環境保全整備の方策について閣議決定した。
 こうして翌年の四月には「財団法人飛鳥保存財団」の設立が許可された。
 高松塚壁画館を出て、整備された芝生公園の先に、建設工事現場のような囲いがあり、屋根があった。その屋根の下に発掘された高松塚古墳があった。
 調査が済んだ高松塚古墳は、現在は密封されて内部の壁画の劣化を防止している。

       

    


    高松塚古墳

高松塚古墳は、昭和四十七年三月、明日香村の依頼を受けた、橿原考古学研究所の発掘調査により、千数百年の眠りから覚め、華麗な壁画が発見された。
「わが国考古学会の戦後最大の発見」と言われる極彩色の壁画をはじめ、副葬品など数々の貴重な資料が出土、その卓越した文化性は、全国に「高松塚」ブームを巻き起こした。
 現在、高松塚壁画は国宝に指定され、古墳は特別史跡に指定され、再び密閉され永久保管が図られている。
 高松塚古墳の径は、約二十mにすぎないが、粘土と砂を交互に一層ずつ、突き固めて築くなど、飛鳥の古墳に特有の、特殊な構造を備えた終末期の古墳の一つである。
 造られた年代は、七世紀末から八世紀初めと考えられている。
 石室の天井には星宿(星座)、周囲の壁には日・月、四神と従者を配し、死者が永遠の眠りにつく小宇宙を形成しており、中国思想に基づいて貴人の墓にふさわしく飾られている。
 高松塚古墳応急保存対策調査会では、石室内の三方の壁と天井に描かれた、壁画の調査を行った。
 
 内部の壁画は、男・女の人物群像、四神、日、月、星宿である。

 男・女の群像は、それぞれ四人一組で、東西の壁に、男子像が南寄りに、女子像が北寄りに描かれている。
 四神は、南壁を除く各壁の中央部に描かれている。
 日輪は東壁の青龍、月輪は西壁の白虎の上にそれぞれ描かれ、星宿は天井の中央部にちりばめられている。
 扉石の内側には、朱雀が予想されるが、漆喰が剥離しており、分からなかった。人物像の足の位置は、龍・虎の脚先とほぼ一線をなし、人物像の高さはおよそ四十cmである。 壁画の状態は、長い年月や盗掘によって、傷つけられていた。
 例えば壁の漆喰に亀裂を生ずるほか、西壁上部などでは、これが原因となって漆喰が剥落している。
 また、天井と側壁の接合部分の一部から、鉄分を含んだ水が滲み出た為め、そこから下辺にかけて、赤褐色に汚れている。このため、東西両壁の男子群像と青龍の一部が、著しく不鮮明になっている。
 盗掘穴から、流れ込んだ土砂によって、埋もれた個所の漆喰は、汚れ、剥落している。 また、顔料の剥落が著しい個所は、東壁女子群像の頭部と腹部、西壁男子群像の一部、青龍の尾の周辺、日輪の下辺などに見られる。
 このほか、玄武には、意識的に掻き落としたと見られる、側壁材にまで達する打痕があり、日輪、月輪の中心部にも、金箔や銀箔を意識的に掻き取った形跡が認められる。
 壁画は、石室の内面に塗った、漆喰の上に描かれている。
 古墳の石室壁画を保存する為に、漆喰の様子や、顔料の成分などを詳しく調べたあと、壁画が傷んだ部分は、剥げ落ちるのを防ぐため、合成樹脂を染みこませた。
 閉じられた石室の内側は、一年を通じて気温十一度〜十七度、湿度九十五%以上と、一定した状態で保存するために、空気調整施設が作られた。
 正確な記録を残すために、前田青邨を代表者とする日本画家のチームによる精巧な模写が作られた。
 この精巧な壁画模写が、壁画館に展示されているものである。

壁画に描かれている人物像について触れる。
 
 東壁の女子群像
 東壁女子群像(南から一、二、三、四とする)では、先頭の女子一が一番手前にいて、斜め左方を向き、手を合わせて円翳(えんえい・・羽毛や絹布などを張ったうちわ形のものに、長柄をつけたもの。貴人に左右からさしかざして、その顔を隠す。天皇の即位・朝賀などの際用いた。かざしのは。)を持っている。
 女子二は、斜め左方を向く姿勢だが、顔は後の方を振り返っている。女子三は、ほぼ真正面を向いている。女子四は、女子一の後方にいて、斜め左方を向き、右手に蝿払いを持っている。  

西壁の女子群像
 西壁女子群像(南から一、二、三、四とする)では、女子一が斜め右方を向き、両手で円翳を持つ。この翳の中心に針を刺した跡があり、コンパスで円を描いたことがわかる。女子二は、一番奥にいて、真横(南)を向いている。女子三は、振り返るように、身体、顔とも斜め左方を向き、左手に孫の手のような如意を持っている。
 女子四は、斜め右方を向き、両手を軽く握り、前にだしている。

         

東壁男子群像
東部男子群像(南から一、二、三、四とする)のうち、先頭の二人の男子は壁面の荒れ
や汚れがひどく一見不明瞭であるが、いずれも斜め左方(南西)を向いて立っている。
男子一は、男子二の左奥にいて、胸の前に袋をさ下げている。
男子二は蓋を持つ。男子三は男子一・二の奥にいて、身体をほぼ正面に向け、頭を右方にめぐらし、首から袋を下げている。
男子四は、男子三の斜め右脇に位置し、真横(南)を向き、右手に太刀の袋をもっている。

西壁の男子群像
西壁男子群像(南から一、二、三、四とする)では、先頭の二人の男子は、ほぼ並んで立ち、斜め右方(南東)を向いている。
男子一は、両手で携帯用の椅子を持つ。男子二は、鉾らしきものを入れた袋を右手に持ち、肩に担いでいる。
男子三は、真正面を向き、胸の前に袋をさげている。男子四は、斜め右方を向き、左手で杖状の棒を担いでいる。
 正面の壁玄武は、亀に蛇が楕円状にまとい付き、二匹が相争っている形である。
星宿は、天井のほぼ中心に北極、四軸、その周囲、東・西・南・北に各七宿を配している。星宿を表すには、まず、星と星を結ぶ朱線を、定規を使って引き、その後、星の位置に紙で裏打ちした円形の金箔(径0.7cm)を貼りつけている。

 

      キトラ古墳壁画

 高松塚古墳の南に、壁画を保存する為、壁画の剥ぎ取り作業が行われたキトラ古墳があるが、中を見学出来るとも思えないから割愛した。
 キトラ古墳は、奈良県明日香村大字阿部山にある直径約十四メートルの古墳で、段築成の円墳で、七世紀末から、八世紀初め頃に作られたと推測されている。墳丘は、阿部山と呼ばれる、小さな山の南斜面にある。
 一九八三年、発掘調査を行なわずに、古墳の内部を確認する為、ファイバースコープによる石室内の調査が行なわれ、玄武の壁画が発見され注目 を浴びた。

 さらに一九九八年の調査では、超小型カメラ(マニュピレ−タ)によって内部探査を試み、新たに白虎像、青龍像、天文図が発見され た。
 二OO一年三月には、デジタルカメラによる内部撮影が行なわれ、新たに朱雀像が発見 され他、玄武や天文図は、これまで以上に鮮明な画像が得られている。
 明日香村阿部山のキトラ古墳の壁画について、同古墳の保存・活用等に関する調査研究委員会(座長・藤本強国学院大教授)は、二OO四年九月十四日、奈良市内で会議を開き、「全面はぎ取り」を承認した。
 発見から二十一年、高松塚古墳と並び「国宝級」といわれる同古墳の壁画は、すべて石室外で保存される事になった。
 同古墳の壁画は、石室に入った雨水などで傷みが激しく、石材から剥離(はくり)していた、四神の青竜と白虎、獣頭人身十二支の戌(いぬ)と卯(う=推定)を、二OO四年九月七日までに取り外した。
 協議を終えた同委員会の作業部会(座長・田辺征夫同研究所埋蔵文化財センター長)が

「石室内で、最適な保存環境を維持するのは困難」

として全面はぎ取りを提案した。
 提案を受けた委員会には、

「安全性が保証されないと承認できない」
などの慎重論もあったが、


 @しっくいに無数の亀裂があり、剥落(はくらく)の危険がある
 A)カビの発生を完全に防止するのは困難
 Bカビ防止で湿度を下げれば、しっくいの亀裂が拡大するの三点から、全面はぎ取りを承認した。
 石室には、四神の玄武と朱雀のほか、寅(とら)などの十二支壁画が残されている。

 いずれも石材に固着した個所が多く、レーヨン紙による表打ちだけでは、手を付けられない状態である。
 このため、樹脂を重ね塗りして強化、はぎ取り可能になった部分から、順次手をつけることにしている。東アジアで最古といわれる、天井の天文図は剥落の危険が高く、具体的な方法は決まっていない。
      

はぎ取った壁画は、付着した泥や木の根をピンセットなどで除去、樹脂を浸透させて強化する。処理の終わった壁画を石室に戻すことについて同委員会は「現状では困難」としている。
 白虎の胴部は、レーヨン紙で表打ちした後、約四十五センチ四方を周辺のしっくいと一緒に取り外した。
 前足部分はしっくいが硬化してもろくなっており、一カ月以上かけて樹脂で強化、十分固まってからはぎ取ることにしている。

 壁画の分割は初めての作業で、東京文化財研究所などの技術者が、特注の道具を使って作業した。ステンレス製の針でしっくいの亀裂を少しずつ広げ、約6時間かけて胴部の取り外しに成功した。
 前足を分割したことについて、文化庁の林温・主任文化財調査官は

「一括して取り外すのが理想だが、安全上のリスクが高く、一旦分けることにした。判断は正しかった」
と話した。
 強化してはぎ取った前足と、継ぎ目が分からないように接続することは十分可能という。

      
    キトラ古墳の天文図


 国内の古墳壁画で、天文図が発見されたのは、高松塚古墳に継いで二例目である。
 天文図には、中国流の星座のほか、赤道、黄道、内規、外規といった、四つの円も描かれている。星座を装飾的に配置した高松塚天文図に対して、科学的な星図に近いという印象がある。

 同じ様な形式を持つ天文図には、中国の淳佑天文図(一二四七年)、朝鮮の『天象列次分野之図』(一三九五年)が現存するが、キトラ古墳の天文図は、八世紀に描かれたと推測されるので、世界最古の天文図になると言える。
 更に、二OO一年十二月の内部調査で、人物像らしき像が描かれている事も確認されている。古墳の被葬者は不明だが、石室内に壁画が描かれている事から、王族クラスの人物であることは間違いない。
  ちなみに「キトラ」という名称の由来は不明だが、一説では、この付近の地名であった「北浦」から来ているのではないかとも言われている。
 現在では、国の特別史跡にも指定されており、文化庁が古墳の保存を検討している。

 保存ための、カメラによる石室内撮影等の予備調査も行なわれている。
 天文図に
ついて、星は金箔で表現され、星と星を結ぶ星座線や、黄道線などは朱で描かれている。 従来、星の表わし方については二説あった。
 星は、窪みで表現している(くぼみに漆喰などを充填していた)という説と、金箔で星を表現しているという説である。
 一九九八年の天文図発見当初より、上記二説が上がっていたが、キトラ古墳学術調査団は、前者の説をとっていた。

その後、二OO一年九月には、奈良文化財研究所が、後者の説を支持する実験結果を公表したが、決着が着いていなかった。
 星座の描き方の投影法は、正距方位図法で描かれている。この投影法は、東アジアの古い星図で、普通に用いられている物である。
「天象列次分野之図」や、淳佑天文図など、現存する 他の星図もこの投影法で描かれている。
 キトラの天文図には、中国流の星座が描かれている。
 一九九八年に天文図が発見された時、まず最初に行なわれたのは、具体的にどの星座が描かれていたかを、決定する作業でした。
 撮影された画像から、同定できた星座は三十前後、確認できた星の数は五OO前後であった。
 二OO一年三月の調査で撮影された画像では、新たに北斗七星と四つの星座が確認さ れている。当時の日本の科学水準から見て、キトラ天文図のような星図を、国内で作る能力はなかったと思われる。
 したがって、原図は、中国か朝鮮で作られた物ではないかと考えらる。
 そこで、天文図に描かれた、星の位置や、描かれた円の半径比などの分析から、観測地点の緯度を計算した所、不確定ながら北緯三八・四度付近での観測という値が出された。 これは、高句麗の都・平壤(北緯三九・O度)の値に近い。

 天文図に描かれた星の位置などのデータから、統計処理を行なった結果、誤差が最小になるのは、紀元前六五年という値が出された。
 キトラ天文図は、具体的にどういう星図を原本としたのだろうか。
 上の二つの計算結果を見ると、「天象列次分野之図」のオリジナル図を原本としたのではないかとも考えられる。

一三九五年に高麗で作られた「天象列次分野之図」は、もともと六世紀の高句麗で作られた、石刻星図の拓本をもとにして新たに観測した結果を加味して作られた星図である。 だから、その高句麗時代のオリジナル図が、キトラ天文図の原本と考えても、時代的にも問題無い。
 しかし、オリジナルの石刻星図は、高句麗滅亡の時に失われていて現存しないため、 直接比較ができない。
 それに現存する、「天象列次分野之図」と比較したところ、星座の形に違いが見られるので、現段階で「天象列次分野之図」をオリジナル図と結論づけるには無理がある。
 また、キトラ天文図を詳しく調査すればするほど、淳佑天文図にも、「天象列次分野之図」にも似ていない事が分かって来た。

  

明日香の石造遺物

高松塚古墳の裏側の丘を抜けて、芝生公園に戻った。
 広々とした芝生公園では、飛鳥の豊かな自然を舞台に見立て、フルートやピッコロ、尺八等の笛を使ったアンサンブルで、クラシック音楽をライブで演奏していた。
 国立飛鳥歴史公園設立三十周年を記念して、「飛鳥歴史の祭典二OO四」が、一年に渡るイベントとして開催されていた。
 その一環として、この連休は「飛鳥満喫フェスティバル」が開催されており、高松塚地区の芝生公園では、飛鳥青空音楽祭が行われていたという訳であった。
 飛鳥青空音楽祭の特設テントで、「国営飛鳥歴史公園まっぷ」と言う、イラストマップが印刷されているレジヤーシートを配布していた。
 貰ったこの特大の「まっぷ」レジャーシートを芝生に敷いて、しばしイブの演奏を楽しんだ。どういうグループなのか、演奏者は全て中年の女性達だった。市民の音楽サークルの人達なのだろう。
 十分程度で演奏が終了して、三十分の休憩となってので、駐車場に戻ることにした。
 駐車場の前に、立派な建物の国立飛鳥歴史公園館があったので、中に入って見た。
 映像と写真パネルやパノラマ模型等で、国立飛鳥歴史公園を紹介する展示館であった。やはりこういう役人が作る展示館は、どこも似たようなもので感心しない。
 すぐに車に戻り、石舞台へ向かった。
 妻は、石舞台へは三回も行った事があると言ったが、せっかくだから、明日香を代表する、石造遺物を写真に撮るために向かった。
 
  石舞台に着くと、やはり周囲の芝生公園にある風の舞台で、飛鳥満喫フェスティバルが開催されており、親里高校雅楽部による雅楽の演奏が行われていた。
 典雅な悠久の調べ雅楽は、古代飛鳥への思いを馳せるには最適の調べであった。
 典雅な雅楽の調べを聞きつつ、石舞台を廻りを写真撮影をした。
 巨大なこの石舞台の遺構を見上げると、古代にどのような方法で、巨石を組み上げたのかと不思議な思いに駆られる。
 明日香を代表する石造遺物の石舞台古墳は、上部の封土が失われて、巨石を積み上げた石室が露出したものである。
 使用されている花岡岩は三十数個で、中でも天井部に使われている石は、長さ十二・五メートル、幅十七・九メートル、厚さ八・九メートル、重さは七十七トンもあるという。 このような巨大な石を、どのような方法で運び、どのようにして石室の天井に組み上げたのか、古代の人々の土木能力に敬服せざるを得ない。
 石舞台古墳は、巨石を使った雄大な横穴式石室であり、石室の長さ、天井の高さ等で最大級の石室である。
 下段の封土(盛土)は方形だが、上段盛土は取り去られており、もと円形だったか、方形だったかは分からないという。封土の周囲に石を張りつめており、空濠を巡らせている。この通称石舞台と言われている古墳は、一般にはこの地の豪族蘇我馬子の墓といわれている。また石舞台の名の由来については、狐が女に化けてこの上で舞を見せたからとか、旅芸人が、ここで芸を披露したから等と、言われている。
 明日香村には、他にも、特異な形をした花崗岩の石造物が、所々にある。 数年前に、一人でレンタルの自転車で、それらの石造遺物を巡った事がある。

        

 貰ったイラストマップを片手に、益田の岩船・酒船石・亀石・弥勒石・二面石など、用途の忘れられたものや、また石人像・二面石・猿石などは、古墳時代に造られた埴輪・石人とも違い、また後の仏像彫刻とも全く異質で、ユーモラスなたくましさに満ちている。 悠久の時を越えた、不思議な古代の石像遺跡について、触れておく。

「亀石」は、一説に条里の境を示すのに利用されたと言うが、本来の用途は分かっていない。原の亀石は、その名の通り、亀とそっくりな姿をしている。地元の伝説によると、この石は少しずつ方角を変えていて、これが西を向いた時には、大和一円は泥沼の底に沈んでしまうと言う。

亀石から西へ行くと「鬼の俎(まないた)・鬼の雪隠(せっちん)」と呼ばれている巨石がある。。伝説では、昔この付近には鬼がいて、旅人が 通りかかると、霧で迷わせて捕らえ、この俎で料理して食べ、下の雪隠で用を足したと言われている。
 実際は、花崗岩の大石をくり抜いて造った石室と、その底石である。元は、生駒郡斑鳩町御坊山古墳の石室のように、組み合わせ上に土が盛ってあったが、古墳が盗掘で壊され、石室が逆さまに転げ落ちたものである。

 

石室の方が「鬼の厠(かわや)・雪隠(せっちん 便所」、底の方が「鬼の爼(まないた)」と言われるようになった。

「酒船石(さかふねいし)」は、平たい花岡岩の上に、丸い窪みや溝を刻んだ、謎を秘めた古代の巨石である。
 造られた目的について、酒の醸造に使われたとか、油を絞ったなど諸説があって、正確なことは分っていない。
 上の面に円や楕円の浅いくぼみを造って、これを細い溝で結んでいる。江戸時代には、「むかしの長者の酒ふね」とよばれた。酒をしぼる槽(ふね)とも、或いは油や薬を作るための道具とも言われている。
 しかし、この石の東四十mの、やや高い所で、ここへ水を引く為の土管や石樋が、見つかっている事から、庭園の施設だという説もある。
 南西四OOmの飛鳥川東岸で、組み合わせて水を流すようにした石が、二個掘り出されており、これにならって、やはり酒船石とよばれている。
 この方は、現在、京都にある。最近の調査で、岡の酒船石周辺を取り巻く、石垣と大規模な土木工事の後が見つかり、斉明天皇の両槻宮との関わりが注目されている。
 
 吉備姫王墓の正面の垣の中に、「猿石」と呼ばれる花岡岩の石像が四体ある。四体とも吉備姫王墓の敷地内にあり、奇妙な姿から猿石と呼ばれている。

   

うち三体には、裏にも顔がある。「今昔物語」(十二世紀)にある、軽寺南方の天皇陵の堤にあった石の鬼形とは、これらの石のことであろうか。江戸時代に欽明天皇陵の南の水田から掘り出され、のち現在地に移された。吉備姫王墓の東南五キロにある高取城跡の一体は、ここから運ばれたものと伝えられている。
 作年代も制作目的も不明で、日本の彫刻の流れから孤立している。この点から、朝鮮渡来の石工の作だろうと考えられている。

 明日香村石神から出土した「須弥山石(しゅみせんせき)」は、重要文化財に指定されている。

七世紀に作られたもので高さ二・三mの石人像で、石神から明治時代に掘り出された。全体の型や、山型の浮彫がある所から、須弥山石(しゅみせんせき)と呼ばれている。
 庭園に伴う噴水施設で、周辺から溝や石敷きも見つかっている。
 斉明朝(655661年)に、蝦夷や南方の人をもてなした時、甘樫丘東方の河原や飛鳥寺西方に造ったという須弥山は、この様なものであったと言う。
 須弥山石の構造は、上・中・下三つの石は、いずれも内部をくり抜いてある。底から水を引き上げて、下の石の中に貯め、小孔から四方へ噴き出させるようになっている。
中の石は、下の石と直接つながらず、間にもう一石あったらしい。
 た下の石の底面の構造から、別の石の上に乗っていた事が分かる。

 

橘 寺

石舞台の前に売店があり、古代米のソフトクリームが売られていた。食べてみたが、普通のソフトクリームと、あまり違いは感じなかった。
 時間は、既に四時を回っていた。少し先を急がねばならない。
 川原寺跡に戻り、その正面にある聖徳太子ゆかりの橘寺に寄る事にした。